偉人・歴史に学ぶ処世術【4】 リストラ、脱サラの教訓にしたい明治維新後の旧幕臣の生き様
2009年10月23日(金)9時0分配信 CAREERzine
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歴史で転職を振り返るシリーズの第4回は「明治維新」です。大政奉還した徳川家は石高が減り、大量のリストラを余儀なくされます。独立して商売を始める人もいましたが、「武士の商法」のとおりなかなかうまくいかず…。リストラ、脱サラが身近にある人は、ぜひ教訓としてください。
■明治維新で大量発生した、リストラ侍の顛末を見る
歴史・偉人に学ぶ処世術シリーズ、第4回は明治維新期の旧幕臣です。
江戸幕府が倒れ、最後の将軍、徳川慶喜は江戸を開城。明治新政府になり、大久保利通、西郷隆盛、大隈重信らが活躍するのは歴史の授業で習ったことですから誰もが知っています。あるいは徳川慶喜が処刑されず、隠棲したこともご存じかもしれません。
それでは、江戸幕府に従っていた、旧幕臣はどうなったのでしょうか? 1868年(明治元年)の時点で幕臣は旗本・御家人合わせて3万人強いました。それも、日本全国に天領、すなわち幕府の直轄領があってこそです。
明治に元号を変える直前、徳川宗家を継いだ徳川家達は静岡藩主に任じられます。石高は70万石。江戸幕府は800万石以上と言われていましたから、その1割にも満たない石高です。当然ながら、幕臣のすべてを雇用し続けられるわけがありません。かくして、大量のリストラ侍が出てしまいます。
歴史の授業では決して出てこない、リストラ侍、彼らはどのような決断をしたのでしょうか。
■3分でわかる幕末 なぜリストラしなければならなかったか?
まずは、江戸末期から明治維新にかけてを説明します。
1867年、江戸幕府の15代将軍徳川慶喜が大政奉還を発表。政権を朝廷に返上します。これで収まらない薩摩・長州の武力倒幕派は、同年12月に王政復古の大号令を宣言します。幕府の廃絶や新政府設立などが骨格で、事実上のクーデターです。
これに憤激した幕府は1868年正月に京都に入りますが、鳥羽・伏見で薩長兵と交戦(鳥羽・伏見の戦い)、幕府側が敗北します。敗戦を聞いた慶喜は、新政府側が錦の御旗を掲げられたことを聞いて驚きます。錦の御旗が掲げられた、これは新政府側が朝廷を抑え、幕府側は朝敵となったことを意味します。
まだ十分な兵力はあったのですが、徳川慶喜は大阪城を脱出、江戸に戻ります。このため、幕府側の兵も江戸に敗走することになり、これでほぼ勝負が決まります。
そして、薩長兵は官軍となり、江戸を目指します。参謀の西郷隆盛は江戸城総攻撃を考えます。一方、徳川慶喜は徹底抗戦派を抑え、恭順派の勝海舟に一任します。勝は高橋泥舟を使者にしようとしましたが、慶喜の護衛役ということで断念。高橋の義弟、山岡鉄舟を使者にします。山岡は官軍の駐留する静岡に行き、面談。勝との交渉の下地を作ります。その後、西郷と勝が会談、江戸城の無血開城が決まりました。
納得のいかない幕臣は上野・寛永寺に立てこもりますが1日で敗戦。東北の25藩は奥羽越列藩同盟を組んで対抗しようとしますが、敗戦。翌1869年に五稜郭の戦いで戦争は終結します。
東北諸藩が官軍と激戦を繰り広げている1868年5月、徳川宗家を徳川慶喜から後を継いだ徳川家達は静岡藩主に任じられます。
その石高は70万石。当時、幕府の直轄領は800万石以上と言われていました。その1割にも満たない石高ですから、大幅なリストラは避けられません。70万石だと抱えられる家臣の数は5,000人がいいところです。しかし、当時、幕臣は3.3万人もいました。
旧幕臣は、次の3つの選択肢を提示されます。
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