「これが一番いいと思うんだけど」
東京都北区の主婦、畑上ゆかりさん(45、仮名)は帰宅した夫に、チラシの大手電機メーカー製の冷蔵庫を指さした。冷却力が弱くなった古い冷蔵庫の買い替えを考えていた。
容積が500リットル以上で、きれいな氷をつくれて、省エネで…。希望の商品を求めてゆかりさんはインターネットの価格比較サイトやテレビ通販、量販店のチラシを見比べ、結論を出した。決め手は20万円を大きく下回る価格だった。
「それにしよう」と同意した夫(46)は表情が硬かった。そして言いにくそうに、勤務先の会社が毎週金曜日を休みとする一時休業を始め、超過勤務手当がなくなり、月給の手取りが減ることを切り出した。夫は電機大手グループの部品メーカーに勤める会社員だ。昨年9月のリーマン・ショック以降、会社の業績は急落した。景気は最悪期を脱したといわれるが、勤務先にはまだ恩恵は届かない。冷蔵庫は、夫のグループ会社製品なら割安で買える。でも、それより安ければ他社製でもかまわないと思っていた。
ゆかりさんは「大丈夫。安い買い物は得意だから」と明るい笑顔をみせたが、ふと悪循環への不安が脳裏をよぎった。
消費者が安さを求めると、それを売る会社は売り上げが落ちる。そうなるとその会社の社員の給料が減らされ、さらに安い買い物を迫られる。ひょっとしたら安い買い物がめぐりめぐって夫の給料を引き下げているのではないか−。
それでもゆかりさんは「生活防衛のため」と、チラシに目を落とす毎日だ。
≪公式に宣言≫
日本が公式にデフレを宣言したのは平成13年3月だ。当時の麻生太郎経済財政担当相が「持続的な物価下落をデフレの定義とすると、現在の日本経済は緩やかなデフレにある」と表明した。日銀も同年3月19日から18年3月までの5年間、金融機関が保有する国債などを買い取って資金を供給する量的緩和を行い、デフレ退治に力を入れた。
しかし、政府は日銀が量的緩和を解除した後も「デフレ脱却宣言」を行わなかった。「再びデフレに逆戻りしない」との自信が持てなかったためとみられる。
実際、物価の代表的な指標である消費者物価はマイナスに逆戻りした。10月30日に発表された9月の全国消費者物価指数(生鮮食品を除く)は前年同月比2・3%の下落で、7カ月連続のマイナスを記録した。日銀は同じ日に発表した「経済・物価情勢の展望(展望リポート)」で23年度の消費者物価指数が前年度に比べマイナス0・4%になると予測した。日本経済のデフレが再来年度まで続くとの見通しを日銀が明らかにしたのはこれが初めてだ。
インターネット上で価格の比較を提供しているカカクコム(東京都文京区)によると、「価格・com」など同社のサイト利用者は、今年9月で4239万人と、前年同月に比べ、61・2%増えた。「サイトへのアクセスは、例年以上の伸び」(同社)という。
出口のみえないデフレが続く中、消費者は価格に敏感になるばかりだ。
≪脅威再び≫
物価下落が企業の収益を食いつぶし、雇用や賃金を圧迫して景気の悪循環を引き起こす「デフレスパイラル」。この脅威が再び現実味を帯び始めた。鳩山政権はマニフェスト(政権公約)に盛り込んだ政策に力を入れる一方、デフレ対策には自公政権同様、ほとんど関心を示していない。危機意識が薄い中、日本経済の体力をじわじわと奪うデフレの恐怖を検証する。
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自公政権が鳩山政権に代わっても政府はデフレ対策に本腰をいれていないが、すでに行き過ぎた価格競争のために経営が立ちゆかなくなり、「デフレ破綻(はたん)」とでも言うべき事態に見舞われる会社が現れた。
「くめ納豆」を生産していたくめ・クオリティ・プロダクツ(茨城県常陸太田市)は8月、民事再生法の適用を申請し、110億円の負債を抱えて倒産した。
「販売拡大のために安くたくさん売るはずだったのに、結局、もうけが出せなかった」。くめ納豆とつきあいのある業界関係者はこう話す。
くめは昭和26年創業で、品質に定評がある業界3位のメーカー。しかし人口減少や若者の納豆離れなどで、平成20年の市場規模が1860億円と14年から8・4%縮小するなど、需要の縮小に悩んでいた。
そこでくめはシェア拡大を目指し、規模拡大に突き進んだ。7年に北海道、20年に大阪と工場を建設し生産態勢を強化した。流通大手の自主企画(プライベートブランド=PB)商品の生産も引き受けた。
しかし、販売は思うように伸びず、シェア拡大も達成できなかった。一方で生産を拡大したため、納豆の市場はさらに供給過多となった。値下げ圧力が高まるばかりで、特にスーパーでは牛乳などとともに目玉商品として安売りされた。
品質に定評のある主力商品の価格も、店頭では40グラム入り3パックで48円と、従来の半分以下の価格にまで落ち込んだ。一方で大豆、原油など主原料の価格が高騰した。
もともと財務体質が弱かったくめは、経営の立て直しを図ったが、やがて経営が行き詰まった。
≪悪影響の象徴≫
くめと同郷の納豆業者は「うちは100グラム当たり80円。この価格は安いときのくめの商品の2倍だが、それでもぎりぎり家族が食べていける程度しか収益があがらない。あれだけ安売りすれば、くめはきつかったはずだ」と話す。
くめをよく知る民間信用調査会社、帝国データバンク水戸支店の坂田勲支店長は「原料が高騰したのに価格へ転嫁できず、逆に値下げを迫られた。これがもともと弱かった財務体力を直撃した。この間、経営の方針などをめぐり、労使の対立や資産水増し問題などが起きた。それも含めてデフレの悪影響を象徴する出来事といえる」と話す。
くめブランドは現在、食酢で知られる大手食品会社、ミツカングループ本社(愛知県半田市)が引き継いでいる。ミツカンは「支持者がいる限り、くめの商品を届けたい」と話す。
こうしたデフレ破綻が起きても、企業が熾烈(しれつ)な価格競争をやめることはない。むしろデフレをめぐる日本経済の現状は厳しさを増すばかりだ。
≪定義満たすも≫
10月30日に発表された日銀の展望リポートは、日本経済が物価下落から回復する道のりの険しさを浮き彫りにしている。
消費者物価指数(生鮮食品を除く)の見通しは21年度がマイナス1・5%、22年度がマイナス0・8%、23年度がマイナス0・4%。物価下落が3年間続くとの予測だ。国際通貨基金は物価下落が2年以上続く状態をデフレと定義しており、日銀の物価見通しはこの条件を十分に満たす。
しかし、日銀は日本経済がデフレだと認めることをかたくなに避けている。この日、記者会見した白川方明(まさあき)総裁は「デフレと呼ぶかどうかは定義次第」と述べるにとどめた。
リポートは物価の下落幅が縮小するとの見通しを踏まえ、経済の持ち直しを見込む。だが、同時に「労働や設備の稼働状況の回復ペースは緩やかにとどまる可能性が高い。企業や家計が持続的な物価下落を予想すれば、実際の物価も賃金とともに下落幅を拡大するリスクがある」と、先行きへの不安も指摘した。
そうしたデフレが深刻化する恐れを実感させる事態がいま、日本経済の現場で進行中だ。
激安ジーンズをめぐってファーストリテイリング、イオン、西友、ドン・キホーテなどが最安値を競い合っている。家電量販店最大手のヤマダ電機の新店「LABI1 日本総本店 池袋」では、オープン初日の10月30日、特売を求める消費者1万5千人が開店前に列を作った。より安いものを求める勢いは高まるばかりだ。
日本経済を脱出困難なデフレスパイラルに突き落とすカウントダウンは、確実に進みつつある。