杉原千畝 ヒューマニズムだけではなかった「情報士官」としてのユダヤ難民救済=手嶋龍一
(SAPIO 2009年8月19・26日号掲載) 2009年8月31日(月)配信
文=手嶋龍一(外交ジャーナリスト・作家)
「命のビザ」を独断で発給し、6000人を超えるユダヤ難民を救ったヒューマニスト杉原千畝。戦後は永くこんな杉原像がメディアによって語られてきた。確かに杉原に救われたユダヤ難民は、シベリア鉄道を経て、ウラジオストクに至り、やがて日本の土を踏んだ。そして上海の租界やアメリカに脱出していった。ひとりの日本人外交官が「幾多のスギハラ・サバイバル(生存者)」を送り出したことは紛れもない事実だ。だが、杉原千畝を人道主義によって行動した日本のシンドラー≠ニ見るだけではその素顔が歴史の闇に隠れてしまう。
誤解のないように冒頭で断わっておくが、杉原の凛とした行動に異を唱えているのではない。イスラエル政府は戦後、人道に果たした功績を称える勲章を杉原に贈っている。これは、彼が試練の中で類稀な勇気を示したことを物語るものだ。
だが、杉原千畝が人道主義だけに拠ってあれほど大量のビザを発給したわけではない。彼はドイツとソ連(当時)という大国の狭間にあった小国リトアニアに駐在していた日本の外交官であり、より本質的には優れたインテリジェンス・オフィサーであった。杉原は独自の情報網を戦時下の欧州に築き上げていく過程で、周到な判断のもとで大量のビザを発給し、ユダヤ難民を極東に逃がしたのだった。
この間のいきさつを知るため当時の欧州情勢を概観してみよう。1939年夏から1940年夏にかけてのヨーロッパ情勢ほど複雑奇怪なものはない。ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、第2次世界大戦が始まるわずか10日前、ヒトラーのドイツは、あろうことか宿敵スターリンと独ソ不可侵条約を電撃的に締結。1939年8月23日のことだった。それは極東の日本にも衝撃を与えずにはおかなかった。ナチス・ドイツは、日本がもっとも頼りにしていた同盟国であり、一方のソ連は、その年の5月に満蒙国境線でノモンハン戦争を戦った主敵だった。ナチス・ドイツは同盟国日本には一切の相談なくソ連と手を結んでしまう。
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