歴代総理の胆力「石橋湛山」(1)「高潔の士」とも謳われた石橋

歴代総理の胆力「石橋湛山」(1)「高潔の士」とも謳われた石橋

歴代総理の胆力「石橋湛山」(1)「高潔の士」とも謳われた石橋

 日蓮宗の僧侶でのちに身延山の法主となった杉田湛誓(たんせい)の長男として生まれた石橋湛山は、長じてリベラルの立場から、軍部ににらまれながらも、持論を開陳してやまぬ経済ジャーナリストとなった。石橋は母方の姓である。

 石橋は早稲田大学文学部哲学科を卒業、毎日新聞社に入ったあと、東洋経済新報社に転じた。その後、同社の社長を経て、有言実行なくして意味なしで、政策を反映させるべく吉田茂率いる自由党に入党した。第一次吉田内閣では、大蔵大臣として迎えられている。経済理論はその著『湛山回想』(岩波書店)にあるように、「戦後日本経済で恐るべきはインフレでなく、むしろ生産が止まり多量の失業者の発生するデフレ傾向にある」とするケインズ流の「積極財政」論者で、当初は吉田総理も石橋理論に期待していたということだった。

 ところが、この期、GHQ(連合国軍総司令部)が、「積極財政」を推進されれば米国を差し置き、日本経済の国際競争力の強化に直結するとの危惧を抱き、石橋のこれまでの言論と併せてパージ(公職追放)としてしまったのだった。このとき、吉田は石橋が将来的には自分の強力なライバルになるとの懸念から、あえてパージ反対の擁護をしなかった。

 石橋はこれを機に吉田と決別、パージ解除後、こんどは鳩山一郎が結成した民主党に参加、鳩山が内閣を組織すると通産大臣として入閣する。その鳩山は「日ソ国交回復」を花道に退陣、「高潔の士」とも謳われた石橋は時に少数派閥を維持していたが後継候補として担ぎ出され、他の立候補者の岸信介、石井光次郎と、自由党と民主党が合併して結成した「自由民主党」初の総裁公選の“修羅場”に立たされることとなる。昭和31(1956)年12月、時に石橋72歳である。

 自民党初のこの総裁選は舞台裏ではとんでもないことが起こっていた。巨額のカネが動き、閣僚や重要党役員ポストの空手形が乱舞で、熾烈な多数派工作が展開されたのだった。ちなみに、このときの“名残り”が、のちの派閥政治につながったとされている。石橋陣営も、ひとり「高潔」を気取っているわけにもいかず、同陣営も相当のカネを使ったと言われている。

 結果、第1回投票では岸223票、石橋151票、石井137票と岸が1位となったものの過半数に届かず、2位の石橋との決選投票へもつれ込んだ。ここで、石橋陣営は石井陣営と「2・3位連合」を組んだ。この「2・3位連合」の票を合計すれば遥かに岸の票を上回るハズだったが、決選投票までのわずかな時間に岸陣営のカネ、ポストを併せた石橋、石井両派閥の切り崩し工作が行われていたことが、開票して改めてわかっている。

 それでも、石橋の側近・石田博英(元労相)らによる投票数のインチキ防止策などの「ウルトラC」が功を奏した形で、わずか7票差ながら石橋が逃げ切った。しかし、この総裁選での自民党内のシコリは尾を引き、石橋内閣の組閣からして、難産そのものだった。

 岸陣営は石橋の申し出る入閣要請をことごとく蹴り、ためにとりあえず石橋総理一人だけの任命式を行い、総裁選からじつに10日後、ようやく組閣が完了するといった塩梅だった。

 総理となった石橋はまず、「私は国民の皆さんのご機嫌を窺うような政治はやらない」と“宣言”、「日中友好促進」と「1千億円減税」という当時としては清新な2大政策を掲げた。しかし、慣れぬ権謀術策に振り回されての心身ともに疲労困憊、間もなく病に倒れたのだった。

■石橋湛山の略歴

明治17(1884)年9月25日、東京・麻布で日蓮宗僧侶の長男として生まれる。11歳で僧籍。早稲田大学哲学科を首席卒業。東洋経済新報社社長。昭和31(1956)年、自民党総裁。総理就任時72歳。昭和48(1973)年4月25日、脳梗塞のため死去。享年88。

総理大臣歴:第55代1956年12月23日〜1957年2月25日

小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。

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