歴代総理の胆力「大平正芳」(1)エピソードが物語る実直な人間性

歴代総理の胆力「大平正芳」(1)エピソードが物語る実直な人間性

歴代総理の胆力「大平正芳」(1)エピソードが物語る実直な人間性

 戦後の総理大臣で初めて在任中に死去した人物が、この大平正芳であった。

 その「胆力」、リーダーシップは、多くの総理大臣がそうであったようないわゆる大言壮語的なものはまったく窺えず、「歩留(ぶどま)り」を低く設定するという重心の低さが特徴であった。「政治が甘い幻想を国民に抱かせてはならない。国民も過大な期待を抱かないで欲しい」の言葉は、総理就任後初の記者会見で述べたものだが、初っ端からバラ色の期待感を持つ国民にノーを口にするなどは、なんとも“異色”と言えた。

 一方で、政治家としては碩学(せきがく)で鳴り、政治より哲学、宗教に精通した文人肌でもあった。言葉もタテ板に水とは縁遠く、話の中には「アー」「ウー」といった“間”の言葉が入って、しばしば聞く側をイラつかせたものだった。しかし、この「アー」「ウー」を話から抜いてみると、見事に理路整然としていたのが特徴的だった。

 大平は東京商大(現・一橋大学)卒で大蔵省に入省したが、東京大学法学部卒揃いの大蔵省内では当然「傍流」だった。しかし、次のようなエピソードが物語るようなマジメ、実直な人間性から、のちに総理大臣となる大蔵省先輩の池田勇人にかわいがられ、これが出世の糸口となっている。

●エピソードその1

 昭和13(1938)年6月、大平は横浜税務署長から仙台税務監督局関税部長への辞令に基づき、仙台へ向けて赴任の日を迎えた。その日、折悪しく京浜地帯は台風による豪雨と洪水に見舞われた。当時、大平は横浜市の磯子に住んでいたが、東京─横浜間の交通が不通となった。なんとしても東京駅から仙台駅行きの汽車に乗らねばならない。責任感の強い大平は、歩いて東京駅へ向かう決心をした。しかし、途中、六郷川がある。意を決して大平は川べりでパンツ一丁になり、トランクを頭上にくくりつけ、抜き手を切って渡り切った。その時、尻にバイ菌が入ったらしく、仙台着任後まもなく“痔”になり、入院するハメになってしまった。

●エピソード2

 仙台税務監督局関税部長は、ドブロクの密造の摘発も大きな仕事だったが、大蔵官僚として怜悧(れいり)になり切れぬ大平は、自ら次のように記している。「人間大平」が浮かび上がるのである。

「税務署の密造監視班は、未明から起きてその摘発にかかるのが常であった。ようやく東の空が明るくなった頃、ドブロクのカメが発見され、ただちに調書がとられ、即決の処分が行われる。若者は働かねばならないので、たいていは老人がその責任をとるようになっていた。時折、その現場に立ち会った私は“権力”と“民草(たみくさ)”、治者と被治者の悲しい関わりについて、何かしら割り切れない、やり場のない気持ちに沈んだものである」(「私の履歴書」日本経済新聞社)

 こうした大平を買ったのが池田勇人ということであった。池田は大蔵省事務次官にのぼり詰め、時の吉田茂総理の要請を受けて政界入り、1年生代議士にして大蔵大臣に大抜擢された。池田は大蔵省の中でも屈指の秀才として聞こえた宮澤喜一と、大平の二人を大臣秘書官に起用した。大平が辞退を申し出ると、池田は言った。

「まぁ秘書官室にすわっておればいいよ」

 大平がそばにいるだけで、池田は気持ちがなごむのだった。しかも、昭和27(1952)年10月の吉田総理の「抜き打ち解散」による総選挙に、イヤがる大平を説得、当時の中選挙区〈香川2区〉から半ば強引に出馬させてしまったものだった。池田としては大平にバッヂを付けさせ、信頼できる側近として仕事をしてもらおうとの思いに他ならなかった。

■大平正芳の略歴

明治43(1910)年3月12日、香川県生まれ。東京商科大学(のちの一橋大学)卒業後、大蔵省入省。昭和27(1952)年10月、衆議院議員初当選。昭和53(1978)年12月、大平内閣組織。総理就任時68歳。昭和55(1980)年6月12日、衆参同日選挙のさなかに急性心不全で死去。享年70。

総理大臣歴:第68・69代 1978年12月7日〜1980年6月12日

小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。

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