歴代総理の胆力「竹下登」(3)「政界のおしん」の異名

歴代総理の胆力「竹下登」(3)「政界のおしん」の異名

歴代総理の胆力「竹下登」(3)「政界のおしん」の異名

 “苦節23年”ついに政権に就いた竹下登の政治手法は、強引さとはまったく無縁の辛抱に辛抱、周囲を説得に次ぐ説得で、ついには「落とす所に落とす」というものだった。「政界のおしん」「調整名人」との異名があったゆえんである。

 それを実証してみせたのは、それまでの数代の政権が模索したものの、世論の反発から成就できなかった「消費税」導入という大仕事を成し遂げたことであった。

 竹下政権からさかのぼること8年前、竹下はすでに政権を取ったら是非、財政再建のために消費税導入を自分の手でとハラを固めていたのだった。落とす所に落としてみせる、との執念ということであった。

 それまでの消費税を巡る経緯は次のようなものであった。

 昭和54(1979)年11月、時の大平正芳首相は、その第2次内閣で竹下を大蔵大臣に起用、間接税としての新税「一般消費税」導入を策した。案の定と言うべきか、これには世論の批判の一方で、野党はもとより自民党内にも反対論が少なくなかった。とりわけ、野党は「一般消費税廃止」の国会決議の動きまで示したのだった。国会決議がされてしまえば、この間接税導入の芽は完全につまれてしまう。

 ここで、「説得しつつ推進する」という竹下流が出た。自民党内はもとより、野党人脈を駆使して根回し、「一般消費税廃止決議」の文言を「財政再建決議」と替えさせ、この決議を通すことで、逆に間接税導入を“延命”させることに成功したということだった。

 しかし、大平内閣は大平の急死ということで、鈴木内閣に引き継がれ、ここで竹下は蔵相ポストをはずれた。一方、鈴木首相は指導力不足もあって、この間接税導入には動けず、次の中曽根(康弘)で改めて再浮上したものだった。

 竹下はこの中曽根内閣で連続4期の蔵相を務めることになったのだが、中曽根ともどもこの間接税を「売上税」と名を変え、導入議論を復活させたのである。

 一方、この過程では、竹下の「したたかさ」も垣間見られた。中曽根内閣で導入へ向けての議論はするものの、その実現への目線は自らが政権を取ったときと定めていたのだった。このことは、消費税導入という“勲章”は自らが総理になったときに付けるという、強い自負ということであった。

 中曽根内閣での竹下首相のリーダーシップについて、田中(角栄)派から竹下派を通じて、長く「竹下手法」を見てきた渡部恒三(元衆院副議長)の、次のような解説が残っている。

「竹下さんの調整力は、これは並ではなかったな。与野党問わず、根回し、気配り、辛抱といったことをフル回転、常に頭を下げて歩いていたね。一方で、粘り強さ、手堅さ、度胸も余人近寄れずの凄さがあった。ノラリクラリの独特の『言語明瞭、意味不明瞭』の弁も、あとで国会の速記録を読んでみると、ピシリとしていて“落とし所”を譲っていない。野党にも適当に点数を稼がせながら、押さえるところはキチンと押さえているということです。

 すなわち、野球の投手で言うと、剛速球は投げずのチェンジ・オブ・ペースの軟投型、打たせて取るというヤツだ。それも、ゴロを打たせては内野手に活躍の場を持たせ、フライを打たせては外野手にも働く余地を与えるという“全員野球”だから、どこからも文句が出ない形になっている。さらに、相手の野党に対しても三振させて恥をかかせることはしない。ポテン・ヒットくらいは打たせることで、メンツは保たせるから凄いのだ。

 竹下さんのリーダーシップは、『漢方薬』との声もあった。あとで、ジワジワと効いてきて、リーダーシップを感じさせないリーダーシップということから来ていた」

■竹下登の略歴

大正13(1924)年2月16日、島根県生まれ。学徒動員により陸軍飛行隊員として入隊。早稲田大学商学部に復学。昭和33(1958)年、衆議院議員初当選。昭和62(1987)年11月、内閣組織。総理就任時63歳。平成12(2000)年6月19日、76歳で死去。

総理大臣歴:第74代 1987年11月6日〜1989年6月3日

小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。

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