訪中悩む角栄氏、大平氏が説得=森田一氏インタビュー―日中国交正常化50年

訪中悩む角栄氏、大平氏が説得=森田一氏インタビュー―日中国交正常化50年

インタビューに答える森田一・元運輸相=8月26日、東京都港区

 1972年の日中共同声明調印から50年を迎える。当時訪中を悩んだ田中角栄首相の背中を押したのは、田中氏の盟友で外相として支えた大平正芳氏だった。大平氏の娘婿で秘書官を務めていた森田一・元運輸相(88)に話を聞いた。(肩書は当時)

 (1971年にニクソン米大統領が電撃的に訪中を発表した)「ニクソン・ショック」が日中国交正常化の契機になったが、米国が動く前から大平の頭には中国があった。田中内閣発足直後に中国の周恩来首相から訪中の招請があったが、角さんは「これで失敗したら辞めなきゃいかん」と渋った。そこで大平が説得した。

 外務省は法眼(晋作)事務次官をはじめ日中交渉自体に反対だった。あれだけぶっつけ本番の会談は歴史上なく、(訪中の成否は)正直分からなかった。角さんは「責任は俺が取る」と言って大平に全権を与え、交渉にはノータッチだった。

 (中国との)交渉では戦争の終結をどう表現するかで最ももめた。中国はこの交渉が妥結したら戦争終結だとして、(52年の)日華平和条約で終結したとする日本の立場をなかなか理解しなかった。

 いよいよ行き詰まった時、角さんが「お前ら大学出は全然だめだなあ」と。大平が「じゃあどうすりゃいいんですか」と聞くと、返事は「そりゃ大学出たやつらが考えるんだ!」。そのやりとりの中で、大平は「これは表現の問題で解決できる」と思い付いた。

 (交渉の結果について)私はなぜこんなに中国は譲るのかと思っていた。後で考えると中ソ問題があり、日本には譲っても、日中関係をしっかり位置付けた方がいいという高度な判断があったんだろう。

 大平と私は飛行機の中で「今回、中国は低姿勢だったが、50年たったら態度はガラッと変わる。大きく経済発展して日本を見下すようになるよ」と話しながら帰った。(大平首相時代に対中政府開発援助=ODA=を開始したのは)戦後賠償の代わりだ。大平は(中国に対する)贖罪(しょくざい)意識が非常に強かったので。

 (台湾断交に関しては)大平は中国と(の国交正常化)は台湾を切る前提でやっていたので(悩む様子は)なかった。首相特使も派遣したし、以前(64年に)本人も台湾に行った。台湾には十分に礼を尽くした。(断交時に台湾で)騒ぎが起こると思い注視していたが、懸念したほどのことはなかった。

 (台湾情勢が緊迫しているが)むしろ私は、中国はよく我慢して台湾を併合せず、ここまで来ているなと。50年間のうちには(やるのでは)と思っていた。

 「50、60年たつと、だんだん中国との付き合いは難しくなるよ」と、当時大平と話した。どうしたらいいかは大平も答えが出ないまま死んじゃった。でも今、中国にとっては日本なんて問題ではなく、米国(が相手)なんですよね。

 森田 一氏(もりた・はじめ)東大法卒。旧大蔵省在職時に大平正芳元首相の娘婿となり、同氏の秘書官を経て自民党衆院議員8期。森内閣で運輸相を務め、05年に政界引退。88歳。 【時事通信社】