人が動く! 人を動かす! 「田中角栄」侠(おとこ)の処世 第34回

 さて、話を国際会議でのIMF年次総会での田中角栄大蔵大臣の演説に戻す。田中は演説で、わが国も開放経済体制へ進むことは努力はするが、世界各国また日本の政策努力も理解してほしいと主張したものだが、この演説、当時としては異例、何と英語で行ったのだった。
 田中は出発前に大蔵省幹部を前に「オレは英語でやるッ」と“宣言”、田中が英語がうまいとは誰一人信じぬ幹部はむしろ“失態”を危惧し、「日本語でよろしいのでは」と顔色を窺った。しかし、田中は頑として、「いやコレでいくッ」であった。一度言い出したらテコでも動かぬ性格の大臣であることは百も承知の幹部は、不承不承これを認めざるを得なかったということだった。

 こうなると、負けず嫌い、何事にも全力投球で鳴る田中もヤル気十分だった。留学経験があり、英語上手の娘・真紀子(後に外相)にまず大蔵省から渡された英訳の演説全文をテープに吹き込ませ、これを暗唱した。「暗記が一番」が子供の頃からの田中の勉強法であったことは、すでにこれまで触れてあることは読者諸賢ご案内の通りである。
 さて、暗唱勉強をしたところで“仕上げ”である。英語の達人ぞろいの大蔵省の中でも、一、二とされた当時の柏木雄介参事官にも同様にテープを吹き込んでもらい、発言の出来栄えにさらにミガキをかけたのであった。

 当日。日本の演説の順番はスーダンの次だったが、演説時刻が近づくにつれ田中はむやみにタバコをふかし何度も英文を口の中で繰り返したりと、さすがに落ち着かないようであった。同行の大蔵省幹部がふとその演説原稿をのぞくと、英語のスペルの下に鉛筆でカナがふってあるものも多々あり、長いスペルには真ん中あたりで発音を二つに分けてあるなど、苦心の跡がアリアリだった。
 しかし、本番では度胸のよさでは人後に落ちない大臣、ナニワ節で鍛えたシブイ声で、一応、最後までまずは“読み上げ”てみせたのだった。外国人記者団の評にいわく、「とにかく理解はできた」「日本語というのは何となく英語に似ているようだ」というものであった。

 一方、英語演説でいささか調子に乗った田中は、その後に行われたIMF総会終了後の打ち上げパーティーでは、今度はナント“持ち歌”の一つ、村田英雄の「王将」を1曲サービスしたいと言い出した。大蔵省幹部はまたまたアワてたが、田中は少しも動ずる様子を見せず、傍らの幹部にいわく、「キミ、通訳しなさい」であった。
 幹部氏はやむなく、まずは田中が歌い始める前に「王将」の“筋”を「ジャパニージ チェスマン ネイムド サンキチサカタ ケイムアップ トーキョー…」(坂田三吉という日本風チェスの“将棋指し”が東京に出て…)と参会者に披露、その後に田中の歌となった。〜吹けば飛ぶよォなァ〜、とトクイ気に歌い始めたがアトを追い掛ける幹部氏は歌謡曲の詞などはもとより知らず、必死の“同時通訳”だったのは言うまでもなかった。
 歌が終わると、外国人に「王将」の心など分かろうはずもなく、参会者はそろってニヤニヤするばかり。IMF専務理事のヤコブソンのみは「あのヒトは将来、大物政治家になるかも知れない」とつぶやいたのだった。

 こうした一方、帰国後の田中を待っていたのは昭和38年度予算案の年内編成であった。大蔵大臣の最大の仕事は予算案を組み、年度内に成立させて国民の生活をつまずかせないようにすることにあり、蔵相1年生はその手腕、能力があるかの試金石を問われるところである。
 田中はここでも、自信満々であった。折から、福田赳夫通産大臣(後の首相)はコロンボに外遊中。田中は通産相臨時代理でもあったことから、「通産相」としてもすこぶる意気込みを見せていた。通常、臨時代理の場合は大臣への遠慮もあり、その間、当たらず障らずでお茶を濁すのが常だが、田中は持ち前の性分からそれができなかったらしい。当時の通産省担当記者のこんな話が残っている。
 「出るものはなるべく締めるのが大蔵大臣の仕事だが、田中は違っていた。逆に通産省幹部に予算獲得のコツを伝授、大いにケムに巻いていた。『キミたちね、どうも通産省の役人というのは商工省(通産省の前身)時代から“監督行政”の習慣が身に付いてしまっておるのか、カネを効果的に使うことを知らんナ。だから、予算の要求も何となくミミッチィんだ。予算獲得のコツはね、これ押しの一手なんだ。覚えておくとよろしい』などと」

 これ“大盤振る舞い”の田中大臣と各省との予算折衝に、大蔵省事務次官以下幹部がヒヤ汗を流し続けた1年生蔵相の予算編成劇となったのであった。
(以下、次号)

小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材46年余のベテラン政治評論家。24年間に及ぶ田中角栄研究の第一人者。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書、多数。

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