天下の猛妻 -秘録・総理夫人伝- 池田勇人・満枝夫人(中)

 満枝夫人のハラのすわりぶりには、いくつかのエピソードがある。
 池田勇人は昭和35年(1960年)7月、首相の座に就いた。自民党総裁選で勝利したその姿を満枝は、東京・信濃町の自宅のテレビで見ていた。その直後、池田から電話が入ったのだった。
 「お前のお陰でやっと総裁になれた。長い間、本当にどうもありがとう」
 ところが、この池田のいささかの感慨、感傷は、時を経ずして夫人の“一刺し”でわれに返らざるを得なくなるのである。池田の側近、首相秘書官だった伊藤昌哉が、自著でこう述懐している。
 「新総裁が決まった瞬間、満枝夫人は『空恐ろしい気がした』と言っていたそうです。その後、首班指名を受け、池田は改めて皇居での認証式などのためモーニングを持って来るように電話で指示した。ところが、そのときの夫人の言葉は、『あなた、(首相を)辞めるときのことを考えておいて下さい』というものだった。つまり、総理・総裁というものは初めは周りからチヤホヤされるが、辞める1年くらい前あたりになると世論はクソミソに言うのが常、そのあたりを十分心得ておくべきだと、夫人は池田以上に醒めた目で見ていたということです。まさに武士の妻のごとし、ハラのすわった夫人だった」(『池田勇人・その生と死』至誠堂)

 もう一つ、モーニングに関するエピソードである。首相になる2年前、池田は第2次岸信介内閣で国務大臣として入閣したが、岸による強権的な「警職法」法案に反旗を掲げ閣僚を辞任。しかし翌年、岸は内閣改造で再び池田に入閣要請をしたのだった。池田のなかには「野に下ったのはいいが、このままでは自分の天下取りは遠のいてしまう。入閣して岸に協力、天下取りのチャンスを窺うべき」との考えがあった。結局、池田は通産大臣での入閣要請を受けてしまったのだった。
 当時、日本経済新聞の政治部記者として池田を取材、その後も長く池田と親交のあった新井明(のちに日本経済新聞社社長)は、筆者にこんな話を聞かせてくれたものである。
 「池田は入閣を受ける前の晩まで、酒を飲んでは『オレと岸は世界観が違う』などとメートルを上げていたのに、コロッと態度を変えてしまった池田を夫人は許せなかった。池田が認証式などのためのモーニングを用意しておいてくれと電話を入れると、夫人いわくキッパリ『モーニングは出せません』だった。池田は『何を言っている。早くしろッ』と怒鳴り返すのだが、夫人いわく『あなたのやっていることは筋が通りません。あまりにおかしいとは思いませんか』とピシャリだった。
 結局、池田派の大平正芳だったか鈴木善幸が池田邸に飛び、夫人をようやく説得してモーニングを運び出したんです。筋がキチッと通っていないことは、認められない。首相になったときの『辞めるときのことは――』の一言とまったく同じ姿勢だった」

 一方で、満枝はハラのすわりばかりでなく、なかなかのユーモリストでもあった。
 池田は代議士1年生ながら異例中の異例、大蔵大臣に抜擢されたように、「ワンマン」吉田茂首相の信頼はピカ一の人物だったが、昭和25年(1950年)6月の朝鮮動乱直前に、吉田の「秘密特使」として、呼吸合わせのためアメリカに飛んだものだった。
 さて、訪米から帰国した池田は、折から京都にいた吉田のもとに報告に行ったが、信濃町の自宅に戻ると、吉田からの郵便物が届いていた。開くと、中から池田の財布が出てきた。添え書きにいわく、「大蔵大臣が自分の財布を忘れるようでは困る。吉田」とあった。吉田がなかなかの茶目っ気の持ち主、ユーモリストであることは広く知られていたが、それがのぞけた。
 その後、吉田が池田の自宅に来たとき、こんどは外交官出身の吉田おなじみの“白手袋”を忘れていったのだった。ここで、満枝のこんなユーモリストぶりが出たのである。
 満枝はその白手袋を池田の秘書の一人に神奈川県大磯の吉田邸に届けさせたが、添え書きを付けることを忘れなかったのだった。それは、次のようにあった。
 「外交官の大先輩が手袋を忘れるようでは困ります」
 吉田はこれにはギャフン、こんな妻あっての池田との距離をますます縮めることになったのである。

 悪妻、気の利かぬ、周囲への目配りをまったく心懸けぬカミサンを持った亭主は、本人がいくら優れていても出世には限界があるのは今の世も同じである。
 ハラのすわり、ユーモリストの一方で、満枝の周囲への目配りもこれまたただならぬものがあった。
 池田が「お前のお陰でやっと総理になれた」と満枝に言った言葉の裏には、若き日の池田の凄絶な闘病生活を夫婦で乗り越えた“婦唱夫随”の時代があったのだった。
=敬称略=

小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材48年余のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『決定版 田中角栄名語録』(セブン&アイ出版)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。

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