天下の猛妻 -秘録・総理夫人伝- 三木武夫・睦子夫人(下)

 太平洋戦争での敗北の責任を痛感、議員辞職に悩んだ三木に対してピシャリ思いとどまらせた睦子であったが、その後も三木の政治人生の中で、随所に「最強の猛妻」ぶりを発揮し続けた。三つの例を挙げてみる。

 一つは、総裁選出馬に関してである。佐藤栄作首相が自民党総裁選に「3選」を目指した際、三木が初めて対立候補として出馬したときである。当時のメディア論調は「『3選』に揺らぎなし」だったが、三木は「人心が倦んでは政治の活力は生まれない」と出馬に意欲を示しながらもなお迷った。出馬決断は、睦子の一言であった。「男ならやってみなさい」。三木は、案の定、惨敗した。その後、佐藤がなお「4選」に出たときも同様で、「負けは覚悟でも、筋を通すなら精一杯やってみることです」。結果は、ここでも惨敗だった。
 さらに、佐藤が退陣を表明したあとの「角福総裁選」にも出馬、田中角栄、福田赳夫両者の熾烈な争いの中で、三木は4人出馬中、わずか69票の薄得で最下位だった。その結果を受けても、睦子は言ったものだ。「何度でもやったらいいわ。“男は何度でも勝負する”ということね」。三木とその支持派議員たちに、喝を入れた格好だったのである。

 二つは、田中角栄が首相となり、政権2年目の参院選に田中が「三木王国」の徳島県に“殴り込み”をかけたとき。田中は腹心で議員バッジなしで内閣官房副長官に引き入れていた元警察庁長官の後藤田正晴を徳島地方区に強引に出馬させた。現職は三木派の久次米健太郎で、この“仁義なき戦い”は田中と三木の「徳島代理戦争」と言われた。
 結果は、久次米が辛くも勝利したが、後藤田陣営からは選挙違反者が出、それも含め睦子の田中に対する怒りはピークに達したようであった。当時を取材した政治部記者の証言がある。
 「睦子夫人は『パパ、黙っていていいのッ』と、しきりに三木をせっついていた。そのくらいだから、『角福総裁選』で田中が勝利、初の組閣後も夫人の舌鋒は、一本釣りで入閣した三木派の大臣に対しても向けられた。入閣の報告に三木邸を訪れた新大臣にいわく、『挨拶に来る場所が違っているんじゃないの』とピシャリだったのです」

 三つは、その田中が昭和49年(1974年)12月、金脈・女性問題で退陣を決断したあと、後継が時の椎名悦三郎副総裁の「裁定」にゆだねられたときである。「裁定」される人物は何人か取り沙汰されていたが、その中に三木の名前もあった。これにも、当時を取材していた政治部記者の証言が残っている。
 「結果的に三木が後継に裁定された裏には、睦子夫人の“暗躍”があった。裁定が出る前、椎名のところに、退陣して2年余でまだ生臭い佐藤栄作元首相が、『三木を指名してやってくれんか』と口添えしたともっぱらでした。なぜ佐藤がそんなことを言ってくるのか、椎名は裏を調べた。すると、睦子夫人が実家の森家とつながっている昭和電工元社長の安西家を動かし、その安西家がこれまた縁戚関係にある佐藤栄作にネジを巻いたということのようだった。この話が“椎名裁定”でどこまで決め手となったかは分からないが、睦子夫人は口を出す人の一方で、実際にそれだけの力のある女性だったことが分かる」

 結果、睦子は結婚以来の悲願だった「三木を首相に」を実現させることとなった。三木首相が正式に決まった日、折りから睦子は急性盲腸炎で東京医科歯科大学附属病院に入院中であった。首班指名が決まった直後、睦子は三木にこう電話を入れたのだった。
 「私のことは心配に及びません。パパは、いままで通りおやりになれば結構でございます」

 夫妻には一人娘の紀世子(のちに参院議員)がいた。紀世子は「ファースト・レディー睦子」を、のちにこう述懐したものだった。
 「三木政権は“三木おろし”など、自民党反主流から徹底的な反発を受け続けた2年間でした。結果的に、母にとっては必ずしも幸福な時代ではなかったかも知れません。白髪が、この間でアッという間に増えましたから。へこたれた姿は決して見せませんでしたけど」

 最後に、三木の意外な“敬妻”エピソードを一つ。
 三木は結婚以来、睦子の誕生日はもとより、2人の子供が誕生したときも、睦子への感謝のプレゼントを忘れたことがなかった。政治以外まるで世事には関心がなく、“ダメ男”だった三木にしてである。睦子は、筆者にこう言ったことがある。
 「私の洋服を買うため、自分でデパートに出掛けていたんです。しかも、どこでどう調べたのか、サイズはいつもピッタリだった」

 三木が退陣後、睦子は趣味の陶芸の個展を開いたことがある。その作品の一つに、なお「武夫よ、黙すなかれ」との題をつけた。しかし、子供たちが反対、ようやく睦子を説得して「武夫よ」だけは削らせたのだ。
 まさに、最強の猛妻の面目躍如であった。
=敬称略=(次号は、福田赳夫・三枝夫人)

小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材48年余のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『決定版 田中角栄名語録』(セブン&アイ出版)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。

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