天下の猛妻 -秘録・総理夫人伝- 大平正芳・志げ子夫人(上)

 大平正芳は、昭和53年(1978年)11月、「盟友」だった田中角栄元首相の全面支援を受ける形で総裁選に勝利、福田赳夫のあとの首相に就任した。総裁に決まったその日、大平は夜9時に東京・世田谷の自宅に戻ったが、元々、性格は浮かれることなくのこれ慎重派だっただけに、厳しい顔つきでの帰還だった。のちに大正製薬社長になる夫妻の三男・大平明は、こう語っていた。
 「母(志げ子)は、父の表情があまりに険しかったので『(総裁選に勝って)よかったですね』どころではなく、『お帰りなさいませ。お疲れさまでした』と言うのが精一杯でした。父のほうは、しきりに『大変なことになった…』と表情を引き締めていました。一方で、母は父の健康が心配だったのです。父は疲れたりすると糖尿が出たし、腎臓結石が出ることもあり、常々『総理になったら死んじゃうわよ』とも言っていたのです。父は総理になったあと、『オレは70歳になったら政治家を辞め、後進に道を譲るつもりだ。総理を辞めたら(議員)バッジをはずすよ』とも言っていました」

 一方で、総理になった大平は、常に政局で揺さぶられ続けた。「親大平」と「反大平」の両勢力のぶつかり合いが絶えず、総理就任1年半で、それはピークに達した。「自民党40日間抗争」と言われ、昭和55年5月、野党提出の内閣不信任決議案に自民党の一部が賛成する形でこれが成立、これをもって、大平は田中角栄の示唆を受けて衆院の解散に踏み切った。
 結果、折からの参院選と合わせ、「衆参ダブル選挙」へ突入したのだった。そのさなかの6月12日、大平は突然の胸の痛みを覚え虎の門病院に入院中だったが、1週間後のこの日、「狭心症」を発症して急逝した。享年70。戦後初めての現職総理の死であるとともに、先の息子の言葉どおり「70歳になったら政治家を辞める」が現実となってしまった。

 大平の臨床から6時間ほどのち、妻・志げ子はその気丈ぶりを示した。まさに、「政治家の妻」の鑑を発揮したのである。大平の長女で森田一元代議士夫人でもあった森田芳子の、こんな証言が残っている。
 「父の倒れた日、私、父の代わりに選挙区(旧香川2区)へ行っておりました。母はなんとも気丈でした。『覚悟はしておきなさい。選挙区だけはしっかり頼みますからね』と。なんとも“政治家の妻”でしたね」

 普段の志げ子は物静かで、例えば、人に色紙を頼まれたりすると緊張で手が震え、大平とは見合い結婚だったが、その見合いの席でもこれまた緊張。お茶を運ぶ手がぶるぶる震えていたのを大平が好印象に受け止め、結婚が成立したといった女性だったのだ。
 前出の大平明が続けて言う。
 「母は父の臨終のときはさすがにがっくりと気落ちした表情でしたが、周囲には涙を見せませんでした。弔問のお客さまにも気丈に応対していたように、大事に直面すればするほど冷静で、シャキッとするたちでした。父の死後の昭和57年春、自宅に強盗が入ったときも同様で、(相手は)刃渡り30センチの包丁を持っているにも拘らず非常ベルを押してうまく外へ出し、これを捕えさせたこともあるんです。芯の強さはなかなかでした」

 「芯の強さ」は、結婚翌年に生まれた長男・正樹を、26歳の若さで難病のベーチェット病で亡くしたときも同様だった。時に、大平の落胆ぶりは極度に達していたようだった。旧大平派担当記者が言っていた。
 「のちに大平夫妻をよく知る人から聞いたのですが、亡くなった直後、家族が大平の姿が見つからないので家中を探したら、大平は生前の正樹さんの部屋で明かりもつけずに一人すわり込んでいたというのです。大平の髪が急速に白さを増していったのも、正樹さんの死が境と言われていた」
 のちに大平は、自らの文章で「(正樹は)何物にも代えられない私の全部に近い存在だった」「生涯最大の悲しみだった」と記している。また、多磨霊園の墓碑銘に「パウロ・ミキ・大平正樹。父であり友である大平正芳書」と刻んだものでもあった。悲しみの度合いが知れる。大平は旧制高校当時、洗礼を受けたクリスチャンでもあったのである。

 大平の秘書からのちに参院議員となった真鍋賢一が、こんな話を残してくれたものである。
 「大平が亡くなったときもそうでしたが、夫人は正樹さんのときも決して崩れることがなかった。政治家の妻というのは、夫が当選したり大臣などの役職に就くと一緒になって喜び、落ち込むとやはり一緒になってうなだれるものですが、浮かれることは一切なかった。政治家の奥さんをずいぶん見てきたが、その冷静さは別格でした」

 大平の総理の激務を終えて自宅に戻っての“第一声”は、決まって志げ子を指しての「おかあさんは?」というものであった。家人が留守を伝えると、決まって機嫌が悪かったものだった。
=敬称略=(この項つづく)

小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材48年余のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『決定版 田中角栄名語録』(セブン&アイ出版)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。

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