田中角栄「怒涛の戦後史」(7)最強の「秘書軍団」(中)

「選挙の強さと政治家の実力は比例する」という言葉が、長く永田町には定着している。

 自身が当落を繰り返したり、地元での足腰ともなる他の衆参の国会議員や県会議員なども含めて、自らの力で当選させられる力量がない国会議員の実力は、たかが知れているということを指す。したがって、歴代首相を見ると、フロック的に首相になったケースは別にして、圧倒的に地元選挙区、あるいはその県などでは強いのが常である。

 田中角栄の選挙における強さについては、あまた知られていることなので、ここで“戦績”には触れないが、ロッキード事件、裁判のさなかでも世間の予想を超えた驚異的な票を出し続けたことは、読者諸賢も記憶に新しいのではないか。

 その「田中常勝」の役割を担い、まっとうしたのが、新潟における「国家老」と言われた本間幸一という人物だった。長岡に本拠地を置き、会員数じつに10万人を誇った「越山会」は、歴代最強の政治家の後援組織といわれ、本間は〈新潟3区〉(注・旧中選挙区制下)内に網の目のように張り巡らされた約300の各地越山会に、にらみを利かせ続けたのである。

 本間は田中と同じ新潟出身で、やがて田中の秘書となり「二人三脚」の政治活動を歩むことになる佐藤昭子の、若き日の婚約者と高校の同窓であった。それが縁で、田中の初当選となる2回目の選挙を手伝い、選挙後は「田中土建工業」の社員となった。

 以後、やがて田中がオーナーの新潟「越後交通」の常務に転じ、地元に張り付いて越山会の選挙活動に目を光らせていたものだった。性格的に当たりは柔らかく気まじめ、外見は痩身の本間には、「選挙戦に入ったら、フトンで寝たことがない」との伝説が残っているのである。

 その本間は、選挙に対してはなかなかの才覚を発揮した男であった。票になりそうなアイデアを、次々に導入したのである。

 それまでの議員の後援組織は“遊び”のない堅苦しいものだったが、本間はまず、越山会に「観光」という要素を取り入れた。細分化された各地越山会の会員をバスで東京・目白の田中邸に運び、憧れの田中に会わせてワクワクさせる一方、そのあとには東京見物のコースを組み入れ、これを「目白ツアー」とした。現在、多くの議員がやっている後援会の温泉旅行などを、本間はとうの昔から実行していたのである。

 一方で「娯楽性」も取り入れた。これは昭和43(1968)年12月11〜12日の2日間、長岡市厚生会館で越山会会員だけに向けた「美空ひばりショー」を開催したのが白眉だった。当時“女王・ひばり”が、2日間、3回公演を同じ場所で行うことはまずなく、異例の出来事だった。時に、田中は自民党幹事長、テレビでひばりと同席したことが縁となっている。もとより、会場は超満員、入りきれない大勢の人が会場を取り巻いたという。

 筆者はこのときの話を、のちに長岡市にある「越後交通」本社の常務室で、本間から直接聞いた思い出がある。

★美空ひばりのノーギャラ出演

 「田中とひばりさんは、性格も合うようなので、思い切ってひばりさん側に頼んでみたのです。『越山会の会員のために、ぜひ、お歌を歌っていただけないものか』と。さて、問題はギャラです。2日間、3回公演ですから、こちらは当時で数百万円は覚悟していた。ところが、まだお元気だったひばりさんのお母さんが、キッパリとこうおっしゃられたのです。『一銭もいりません。ただ、弟に小遣いとして50万円ほどやってください。お金を使う子ですから』と。ひばりさん自身は、ノーギャラで出てくださったのです」

 時に、ひばりは弟で歌手の香山武彦、漫才の青空星夫・月夫、三波伸介が率いた「てんぷくトリオ」、演奏の原信夫とシャープス&フラッツらを引き連れてやってきた。自らは『お祭りマンボ』『ひばりの佐渡情話』『悲しき口笛』『越後獅子の唄』『悲しい酒』『柔』『真赤な太陽』など各回とも22曲を熱唱し、越山会会員を狂喜させたのであった。

 ちなみに、当時の「弟への50万円」は現在の金額ならほぼ10倍、500万円ほどの“小遣い”であることから、なんともべらぼうではあった。

 それから1年後の昭和44年12月の総選挙で、田中はそれまで獲ったことのなかった13万3000という、とてつもない票を得たのだった。ひばりを呼ぶといういわばバクチが、勝利につながったと言えたのである。その本間は、生涯を独身ですごした。田中を政治家として大成させることに、全情熱を傾けた人生だったということである。

 じつは、この本間の一方で、越山会の組織化に寄与した人物がいたことは、あまり知られていない。東急電鉄グループの創始者だった五島慶太の「懐刀」と言われ、田中角栄との親交が厚かった田中勇という知恵者が、その人である。

 田中勇は計数に明るく、「得票率」という手法を進言、越山会の組織強化に尽力したのである。単に選挙区内にある各地越山会が出す票の多寡だけでなく、有権者数に比して何パーセントの票を出したかで、その各地越山会の尻を叩くというものである。

 この「得票率」が悪いと、その地区は陳情などの際、田中サイドに渋い顔をされてしまう。ために、各地の越山会は競うように「得票率」を上げることに汗をかき、結果としてこれが田中の票の上積みにつながったのである。

 こうした才覚に溢れ、知恵の巡る人物たちが、田中の選挙を支えていた。選挙は、政治家にとっては舞台裏である。一方で、権力抗争という政治活動の表舞台をも“田中命”で支えたのが、なにしおう最強の田中派「秘書軍団」ということだった。
(本文中敬称略/この項つづく)

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【著者】=早大卒。永田町取材49年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『愛蔵版 角栄一代』(セブン&アイ出版)、『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。

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