田中角栄「怒涛の戦後史」(15)元首相・中曽根康弘(中)

田中角栄と同期、昭和22(1947)年4月の戦後第2回目の総選挙で初当選した中曽根康弘は、一貫して政界山脈の頂上、首相の座を目指した人物であった。

 一方の田中が、戦後復興のための道路、住宅などの法律整備(議員立法)に汗をかく中で、中曽根はあらゆるパフォーマンスのチャンスを見逃さず、国会内外、国民の耳目を集めることに大きなエネルギーをつぎ込んだのであった。

 陣笠議員の頃は「日の丸愛国運動」なるものをブチ上げ、新聞には「首相公選論」の推進を投書するといった具合で、この手のパフォーマンスは数えきれず、すべからく自ら首相への“近道”を模索したものにほかならなかった。

 戦後の歴代首相のうち、こうしたパフォーマンスの年季の入り方はダントツで、訪米した折に、当時のブッシュ大統領の前でロックギターを弾くマネをしてみせ、米国内から失笑を買った小泉純一郎元首相などと比べれば、“大人と子ども”の違いがあった。

 派手なパフォーマンス全開の一方、その“風見鶏”ぶりもまことに機を見るに敏で、こちらも全開、常に時の権力の行方に目をこらすのだった。ために、どういう立ち位置をとったら得策か、小派閥を率いながら、以下のような目まぐるしい「政界遊弋史」を刻んだものであった。

 もともと中曽根の自民党での親分は、農林大臣などを歴任した実力者の河野一郎(現・防衛大臣の河野太郎の祖父)率いる河野派だったが、河野の急逝を機に河野派の大半を糾合して中曽根派を旗揚げした。

 時に、佐藤栄作政権が発足した直後は、中曽根いわく「河野先生の佐藤批判を私も貫く」としていたが、次第に「反佐藤」ゆえの冷や飯期間の長さにシビレが切れたか、その第2次内閣では、運輸大臣のニンジンをぶら下げられて飛びついてしまった。

 中曽根派内からは「変節ではないか」と不満の声が多数出たが、ここで中曽根いわく「犬の遠吠えでは効果がない。刀の切っ先が相手に届く必要がある。佐藤さんのために入閣するのではなく、政治家として国家国民のために働くためである」とした。

 しかし、派内の不満は収まらずの中、佐藤首相は政権基盤を固めるため、なお中曽根の懐柔策に出た。第3次内閣で防衛庁長官ポストを提示すると、もとより中曽根は拒むことはなかったのだった。

 こうした中で、かつての佐藤批判はどこ吹く風、中曽根の党内外に向けての弁は相変わらずソツがなく、「私は沖縄(返還)問題が解決するまでは佐藤総理を守る」と“宣言”した。すると、これがまたいたく佐藤を喜ばせ、次の改造人事ではついに党三役の一角、総務会長のイスを手に入れることにつながった。この閣僚ポスト2回を経験し、党三役の一角も占めたことで、中曽根のうかがう先には、ぼんやりながら「首相」の2文字が見えだしたようだった。

★「実力者は皆“風見鶏”」

 しかし、中曽根の「政界遊弋史」は、なおも続いた。佐藤が退陣、そのあとを田中角栄と福田赳夫が争う熾烈な「角福総裁選」が勃発すると、群馬出身の中曽根は、当初、同郷の福田を担ぐとみられていた。ところが、最後は自らの総裁選立候補も取りやめ、田中の支援に回ってしまった。

 この“論功行賞”もあり、田中は第1次、第2次内閣を通じて中曽根を通産大臣、自民党幹事長として優遇した。これはまさに、政権基盤の強化を狙っての“抱き込み”を図った格好だった。

 だが、中曽根“風見鶏”は、常に全開である。田中が退陣、その後、三木武夫、福田赳夫を経て、田中の「盟友」大平正芳が政権を獲得したが、総選挙で敗北すると党内で「辞めろ」コールの責任論が噴出した。中曽根はこれに同調して、当初は「大平おろし」の声を挙げたが、途中から、動きは「大平支持」に変わったのだった。

 反主流かと思えば、いつの間にか主流派の地位を占め、この「大平支持」が決め手となり、中曽根は「闇将軍」田中から一応の“お墨付き”を得た。

 こうした類いまれなパフォーマンス、政界の“風見鶏”ぶりがいよいよ実を結ぶことになったのは、昭和57年11月の自民党総裁選であった。ここで最大派閥である田中派の支援を受け、ついに政権の座に就くことができた。もとより、田中が自らの影響力を残せる政権としての支持にほかならなかったが、中曽根にとっては、一貫して首相の座を目指しての政界入りから、35年で得た戴冠であった。

 中曽根のこうした源義経も顔負けの「八艘跳び」について、政権当時の中曽根派幹部の一人は、このような“助け舟”を出していたものである。

「ジャーナリズムをはじめ、中曽根さんのことをよく“風見鶏”と揶揄するが、これは抜群のバランス感覚と見ることもできる。まあ、天下を取るためには、田中角栄、三木武夫、福田赳夫、大平正芳、鈴木善幸といった中曽根さんまでの数代の総理も、誰もが“風見鶏”だったのではなかったか。天下は、そうでなければ取れんということだ」

 しかし、田中角栄はそうした中曽根に対し、「良質の株ではあるが、上場株にあらず」と田中特有の言い回しで、厳しい眼差しを持ち続けていたのだった。
(本文中敬称略/この項つづく)

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【著者】=早大卒。永田町取材49年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『愛蔵版 角栄一代』(セブン&アイ出版)、『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。

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