田中角栄「怒涛の戦後史」(22)元防首相・橋本龍太郎(上)

「小沢(一郎)は、ナタの魅力だ。黙々と仕事をして、やるときにはドスンと決断する。一方の橋本(龍太郎)は、カミソリだな。頭脳明敏、スパッという切れ味が魅力」

 田中角栄は、門下から逸材を輩出した。その関係の濃淡を別にすれば、首相に竹下登、羽田孜、小渕恵三、麻生太郎、鳩山由紀夫、そして橋本龍太郎と、じつに六人を送り出している。首相以外でも、小沢一郎、梶山静六、渡部恒三、野中広務など、政界の第一線で活躍した人材を多く育て上げたことが知られている。日本政治史の中で、そうした人物は一人としていない。

 特徴的なことは、そうした人材の中に「二世」が多く含まれていることであった。前出の面々で言えば、羽田、小渕、麻生、鳩山、橋本、小沢がそうである。

 背景は、門閥などまったくなしの叩き上げとして政界入りした田中が、「保守本流」の中軸たる吉田茂元首相の門下にもぐり込み、そこで多くの政治家との親交を得たことにある。その子息たちが前出の面々ということだった。田中の中には、そうした“由緒”に対する漠然とした憧れがあり、「二世」をかわいがった側面もあったと思われる。

 しかし、炯眼の田中は、そうした「二世」たちを決して猫かわいがりで育てたわけではない。その中で、将来、とくにこの国をけん引していく人物と睨んだのが、小沢と橋本の二人であった。冒頭の言葉は、田中のその“人物評”ということである。この二人について、小沢は手元に置いて政治を教えたが、橋本には自由な羽ばたきをさせた。

 そうした中で、案の定と言うべきか、橋本は田中が見抜いた明敏な頭脳と、そのうえで勉強家であること、筋が通らぬことは誰であっても譲らず反論するというケンカっ早さと鼻っ柱の強さで、早々と自民党に「橋本あり」を認知させていったのだった。

 陣笠代議士としての永田町での異名は「風切り龍太郎」で、由来は怖いものなしで、肩で風を切って歩く威勢のよさから来ていた。そのあたりのエピソードに関しては、往時の政治部記者の次のような証言がある。

「橋本が議員バッジをつけて間もなく、自民党本部の職員に組合がないことに気がつき、先輩議員に『今の社会で、これはおかしい』と食い下がったら、『キミ、余計なことは言わんでいいんだッ』と一喝された。

 また、衆院の副議長と常任委員長の人事問題がこじれ、与野党対立で国会が空転したときも同様だった。このときもベテラン議員を前に『これは時間の空費だ。話し合いがダメなら、多数決の原理というものがある。投票で決すべしでしょう。国会はじつにバカバカしい時間の使い方をしている』とやって、やはり『おまえは黙っとれッ』と叱られた。しかし、叱られても橋本本人はシャアシャアとしていた。若いが度胸は相当と言ってよかった」

★角栄「一の子分」を自認

 橋本は吉田茂内閣で厚生大臣や文部大臣を歴任し、硬骨漢として知られた橋本龍伍の長男として生まれた。龍伍は、日頃から「政治とは弱い人を助けるためにある」を口癖にしており、龍太郎は、子どもの頃からそれをよく耳にしていた。その後、麻布中・高を経て慶應義塾大学法学部政治学科を卒業、当時の呉羽紡績に入った。

 血の気の多さは麻布高校時代からで、チンピラと立ち回りをして、ナイフで目の下を切られたこともあった。後年、橋本の左眼の下には、薄っすら傷跡が残っていたものである。呉羽紡績では全繊同盟の組合員となり、民社党候補の応援に駆けずり回った“元気者”であった。

 その父・龍伍が甲状腺腫というガンで他界したことで、後継に選ばれたのが龍太郎であった。もともとは、龍伍の〈岡山2区〉(旧中選挙区制)を継ぐのは異母弟の大二郎(NHK記者からテレビキャスター、高知県知事を歴任)と決まっていたが、当時はまだ高校生で、お鉢は弱冠25歳、被選挙権を得たばかりの兄・龍太郎に回ってきたということだった。

 昭和38(1963)年11月の総選挙で、橋本は父親の後援会約4万人をバックに“弔い合戦”に挑んだ。選挙では、亡き父の遺志である「福祉国家の建設」を掲げた。その戦いぶりについては、地元記者のこんな証言が残っている。

「甘いマスクのうえに、髪は映画スターよろしくリーゼント・スタイルでキメて登場したからたまらない。橋本の行く先々は、若い女性がこの若武者を一目見んものと、常に押し合い、へし合いだった。握手をした途端、感激して腰が抜けて立てなくなった女性もいた。ホントの話です。

 しかし、演説はヘタクソだった。話が堅すぎて反応はイマイチ、とてもいけんかった。そのうえ集まった女性を後援会が調べてみると、大半が選挙権を持たない未成年で、後援会幹部は『これでは票が読めない』と嘆いていたものです」

 時に田中は佐藤(栄作)派の中堅だったが、第2次池田勇人内閣で大蔵大臣に抜擢されたばかりだった。一方、橋本はこの“初陣”選挙で、堂々の2位当選を飾った。

 その橋本が、田中の「一の子分」を自認するのは、初当選から6年後、田中の幹事長時代に起きた“ある出来事”からであった。あの鼻っ柱の強い橋本が、田中の恩情に人目をはばからず号泣したのだった。
(本文中敬称略/この項つづく)

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【著者】=早大卒。永田町取材50年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『愛蔵版 角栄一代』(セブン&アイ出版)、『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。

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