横田早紀江さん 単独インタビュー(1) 表現のしようのない怖さ〜めぐみさんが拉致された当時のこと

ニッポン放送「垣花正あなたとハッピー!」(8月18日放送)に北朝鮮による拉致被害者である横田めぐみさんのお母様の横田早紀江さんが出演。6月に亡くなった夫・滋さんについて、また未だ帰らぬ娘・めぐみさんについて。垣花正による単独インタビューが実現した。

横田早紀江さん

夫・滋さんが亡くなられて2ヵ月

1977年に横田めぐみさんは拉致に遭い、その事実が20年後の1997年に新聞で報道された。その後、家族会が結成され、横田めぐみさんを含む、拉致被害者の無事帰国を願う活動が始まった。2002年、北朝鮮は拉致を認め、5人の生存、8人の死亡を発表。この際、横田めぐみさんは死亡という通達もあり、2004年には「これが遺骨である」との提出があったが、後にこれが別人であることが判明。そして2014年、横田夫妻はめぐみさんの娘とされる、ウンギョンちゃんとの再会を果たしている。

垣花)横田めぐみさんのお母様の、横田早紀江さんにお話を伺います。早紀江さん、ご無沙汰しております。

横田)ご無沙汰しております。

垣花)先日報道がありましたけれども、共に頑張っていらしたご主人の滋さんがお亡くなりになって、2ヵ月が過ぎました。気持ちの整理の部分も含めて、どのような状況ですか?

横田)不思議ですが、お父さんがまだいるという感じがします。まだ、お骨も置いてあるから、「こんなところに入っちゃったのね」と冗談も言いながら、毎日話しかけています。

北朝鮮の拉致問題に関して家族会と救う会が合同会議を開いた。会議後に会見する横田滋さん=2016年2月21日午後、東京都港区 写真提供:産経新聞社

めぐみさんが拉致された当時のこと〜辛い日々だった新潟での20年

垣花)改めて振り返って伺いたいのですが、1977年11月15日に新潟で、いまでこそ拉致という言葉がありますが、当時は滋さんも早紀江さんも、まったくわけのわからない状況でした。

横田)まったくわからなかったです。表現のしようのない怖さ、「何なのだろう」という気持ちでした。いつも苦しくて、悲しくて、海岸を泣きながら何度も何度も探しました。あそこの土が触られているから、あそこに埋められているのではないかなどと、そんなことまで思いました。いまも私たちは、新潟の時代は悪夢の時代だと思っています。20年もありましたが、振り返りたくないくらい嫌です。

「北朝鮮による拉致」被害者家族連絡会が会見=1997年3月26日 写真提供:産経新聞社

報道により北朝鮮による拉致被害であることが判明〜動かない政府にイライラする

垣花)それから20年後の1997年に、これが国家ぐるみの恐ろしい陰謀、犯罪であることが産経新聞で表に出るまでは、もう本当に暗中模索ですよね。

横田)そうです。近所の方が「こんなことがあるんだよ」と言って、新聞の写真を持って来てくださいました。すぐに新潟の新聞社や、警察に1人で行きました。「こんなことがあるのですが、(めぐみがいなくなったのは)これではないですか」と言いましたが、「いやあ、この子は小さいから違うでしょうね」と言われて終わりでした。「そうか」と思い、ポロポロ泣きながら帰って、玄関で泣いていました。でもいまでは、あのときのようになったら絶対に負けると思うので、もう涙が出て来ないです。

垣花)負けないためにですね。報道があってから、滋さんと早紀江さんの人生はこれまでとは違う展開になり、家族会が結成され、滋さんは会長にもなりました。

横田)こんなことになるとは思いませんでした。それでも政府があって、国家を救うためにたくさんの人がいらっしゃるのだから、「絶対に動く」と家族はみんな思っていました。それが「何をやっているのでしょうね」と、だんだん言うようになって来たのです。いまも、何もわからないではないですか。めぐみちゃんの姿もなければ声も聞けない。生存情報は不思議と、いろいろなところからあるのですが。その辺りが、いまでもイライラします。

垣花)世の中の後押しというのは、滋さんや早紀江さんにとっては、「よし頑張るぞ、絶対に取り返すのだ」という思いにつながったのでしょうか?

横田)それはもう、すごい力です。家族会だけが動いているのではなく、救う会や専門家の方たちが「こういうことをして頑張ろう」と組み立ててくださって、それに私たちが入り、一緒にやって来ました。それを見て、皆さんが講演に呼んでくださったり、中学校に行って生徒さんに話したり……そういうことが重なって、いまのように大きくなったのです。だから、みんなの力があるのです。

家族会・救う会による国民大集会を前に、署名を開始した平成9年以降の署名が入った段ボールの山を前にあいさつする横田早紀江さん(前列右から2人目)=2019年5月19日午前、東京・平河町の砂防会館 写真提供:産経新聞社

横田めぐみさんの本名を公開する際の葛藤〜5人の被害者が帰国したときはまるで演劇のようだった

垣花)横田めぐみさんの本名を、初めてマスコミに出すか出さないかという葛藤は、どうだったのでしょうか?

横田)あのときは本当に、顔面神経痛になりそうでした。

垣花)顔面神経痛ですか?

横田)顔が勝手に動いてしまうのです。「お父さん、そんなことをしたら絶対にやられちゃうよ、あの国は怖いんだから」、「お父さんみたいに単純にそんなことをしたらダメだよ」と、毎日そんなことばかり言っていました。だけど、お父さんに「20年間何もわからなくて、やっとこれだけわかったんだから、行動しなかったらいなくなるよ」と言われたら、賭けないわけにはいかないですよね。そのときは皆さん、「えー」と言って、納得したような、していないような感じで決まりました。でもいまになったら、お父さんが言ったから動いて、たくさんの方が助けてくださり、そして本当に5人の方が帰って来ました。あの人たちが帰って来たときには、「やっぱりいたんだ」と思いましたからね。写真を持って、蓮池さんのお母さんも一緒にやって来たんですもの。「写真の人だ。本当に帰って来たんだ」と、まるで演劇を見ているような感じでした。

夫の滋さんの死去を受け、息子の拓也さん(左)、哲也さん(右)と記者会見する横田早紀江さん=2020年6月9日午後、国会 写真提供:共同通信社

川崎市で開催された「めぐみちゃんと家族のメッセージ〜写真展」

垣花)川崎市で再び開催された横田めぐみさんの写真展で、改めて滋さん、早紀江さん、そしてめぐみさん、哲也さん、拓也さんご家族の写真を拝見しました。よく家族旅行に行かれたのですよね。

横田)家族旅行がお父さんの趣味でした。お父さんが病院に入って、だいぶ弱っているときに、「お父さんはよくいろいろなところに連れて行ってくれたよね」と話しました。本当にそれは思い出ですね。

米朝首脳会談に関して会見する横田早紀江さん(右)と家族会代表の飯塚繁雄さん=2018年6月11日午後、東京・永田町の参院議員会館 写真提供:産経新聞社

おちゃめな一面もある横田めぐみさん

垣花)僕がいちばんグッと来たのは、めぐみさんの写真よりも、お友だちの眞保恵美子さんに宛てた、めぐみさんの直筆メッセージです。

横田)あの人、面白いことを書くでしょう。

垣花)「ボンボさんへ」というものです。

横田)ああいうところがあるんです。誰にでもニックネームをつけて。

垣花)かわいい字で。漫画がお好きだったんですってね。

横田)漫画が好きで、猫が三輪車に乗っていますよね。あれは、普通にかわいい猫ちゃんが乗っているんです。いろいろなところに描いて、おちゃめなんです。

垣花)ちょうど13歳だと、思春期に差し掛かっていますから。

横田)これから面白くなるなと思っていました。「お母さん、素敵な男の子がいたんだよ」などと言っていました。「今度、文化祭があるから見に来てね」と言われました。「そんなことを言う人はいないわよ」と言ったら、「お願い、お願い」と言うので、行くでしょう。そうしたら、「あそこにいるわ」などと言うのです。「お母さんのときはどうだったの?」なんて言うから、「お母さんのときなんて、素敵な男の人が家の前を通るのを窓から眺めていたよ」と言うと、「みみっちいことをしていたのね」と。その言い方が面白くて、2人で笑いましたね。

安倍晋三首相(右)に対して発言する横田早紀江さん(左から4人目)=2018年5月28日午後、首相官邸 写真提供:産経新聞社

滋さんの棺のなかに入れためぐみさんの写真〜帰国しためぐみさんに見てもらうための形見の櫛

垣花)滋さんがお亡くなりになったとき、一緒に棺のなかに写真も入れられたと。

横田)最後の家族旅行での写真です。めぐみちゃんがピンクのジャンパーを着て、立っている。「抱っこできなかったからね、お父さん。抱っこして行ってあげてね」と、胸の上に置いてあげました。

垣花)11月15日にめぐみさんは連れ去られてしまうのですが、その前日にお父さんにプレゼントした、滋さんが肌身離さず持っていた櫛ですが。

横田)あの櫛を、どうしようかと思ってすごく迷いました。でも、これは希望のために残しておかなければいけない、めぐみちゃんがまた帰って来ると思うから、そのときに「お父さんが亡くなる前まで、こうやって持っていたんだよ」と言ってあげなければいけないと、これはしまっておこうと思いました。

垣花)希望のためにとっておこうという櫛を、しっかりめぐみさんに見てもらわないと。

横田)本当に見てもらわないと。これだけは叶えてあげなければいけないと思います。

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