中曽根康弘氏を悼む 憲法改正 生涯の夢追い 産経新聞社相談役(前会長)熊坂隆光

 「俺も八州無宿、国定忠治の流れを汲(く)む上州の生まれよ。時にはいかさま賽(ざい)も使うってことさ」

 「君子豹変(ひょうへん)」とはよくいったもので、中曽根康弘氏を取材していると、ときどき、びっくりするような変わり身の早さに驚かされることがあった。それが「風見鶏」という傍目(はため)には不名誉な評価の原因となったのだが、本人は「風を読めなければ国は動かせない。坂本龍馬も高杉晋作も偉大なる風見鶏だった」といって気にもかけなかった。国のためならいかさま賽もいとわない、というのである。

 佐藤栄作政権時代、党内反佐藤勢力の急先鋒(せんぽう)だったが、突然運輸相として入閣してしまう。当然ごうごうの非難を浴びたが、平然と「匕首(あいくち)の切っ先が届く範囲に飛び込んだほうが、敵の首は狙える」と言い放った。「角福戦争」では、だれもが同じ群馬県の福田赳夫氏を応援するものとみていたが、土壇場で田中角栄氏支持に。「日中国交正常化を実現してくれるのは角さんしかいない」がその理由だった。それまで誰も中曽根氏から日中国交正常化急ぐべしという話を聞いていなかったのに。

 結果としてこれが田中氏との関係強化につながり、政権への道を少しずつ前進させたのだから「いかさま賽」というより天性の処世の術にたけていたのかもしれない。古い自民党政治の中で「保守傍流」とされた中曽根氏が政権の座を目指すためにはいたしかたないことだったのだろう。

 政治目標を達成するためには政権の座に就かなくてはならない。そのためには毀誉褒貶(きよほうへん)を気にしてばかりいられなかった、ということか。

 鈴木善幸内閣では、意に反して行政管理庁長官に起用された。多くの永田町ウオッチャーは「歴代内閣が頭を痛めた行革がうまくいくわけがない。失敗すればまた政権の座が遠のく」と受け止めた。ところが、臨時行政調査会を立ち上げ、象徴的な存在として、土光敏夫氏をトップに招き、行革をある種のブームにまで高めてしまった。国鉄民営化などはその成果だ。

 「風を起こし、その風に乗る」は中曽根政権のスローガンのひとつである。最近の選挙結果を持ち出すまでもなく政治を語る上で「風」は欠かせないが、世論の動きや空気を最も早く、敏感に政治に取り入れた政治家は中曽根氏だった。

 昭和22年に初めて衆院選に打って出た際、自転車を白く塗って遊説した。白馬のつもりだったのだろうか。初当選してからはずっと葬儀用の黒ネクタイで登院した。「占領下は日本国の喪中」だからで、群馬県高崎市の事務所には半旗が掲げられていた。早くからメディアの注目を集めるのがうまかった。

 政治家として生涯の目的としていたのが「戦後政治の総決算」。日米関係を基軸に「世界の中の日本」を明確にすることだった。とりわけ憲法改正には熱心に取り組んだ。

 「恋人と首相は自分で選びましょう」

 50年代まで、選挙区に向かう高崎線の沿線ではこんな立て看板が目についた。首相公選論を唱える中曽根氏が立てたものだ。改憲への世間の関心を高めようという試みだった。

 61年7月、中曽根氏が参院選と同日で断行した衆院選で自民党は300議席を獲得した。このとき、多少現実味を帯びて憲法論議が高まったが、その後は政治情勢もあって大きなうねりにならなかった。

 安倍晋三首相が2020年の新憲法施行を明言したことで改めて改憲論議の前進が期待されたが、国会での本格的論議には至っていない。「生きているうちに何とか」と言い続けてきた中曽根氏の悲願は生きて成就の日の目を見ることはなかった。白い自転車に乗って政界を目指した若き日の夢が現実となる日はいつになるか。

 戦争で失われた日本らしさの復活と、日本人としてのアイデンティティーの確立−。自分が取り組むべき明確な目標、理念を持ち、その実現のためにはあらゆる手段を尽くし、毀誉褒貶を恐れないという中曽根氏のような骨太の政治家が今の国会にどれだけいるだろうか。戦後政治をまさに修羅のごとく走り抜けてきた中曽根氏の死。一時代が確実に幕を閉じた。

 (くまさか・たかみつ、昭和52年から自民党中曽根派を担当)

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