「国家観の欠如」が菅総理の致命傷か 気鋭の学者が語る「防災省」構想再評価

 菅総理が誕生してまだ10カ月も経っていないのだが、発足当初の触れ込みをすでに多くの国民は忘れつつある。

 昨年9月14日、自民党総裁選に菅氏が圧勝した際、各紙の評価はどうだったか。

「国家観が欠如している」「派閥の力で勝っただけ」といったネガティブな評もあったものの、「たたき上げ」「苦労人」「実務能力が高い」「仕事師」「ぶれずに突き進む」「実行力がある」等々、ご祝儀的な側面はあるにせよ、こんなポジティブな言葉が並んでいた。

 しかし、新型コロナウイルス対応を巡って、国民の不満は溜まる一方で、支持率は低下し、ネット上では「無能」といった酷評も珍しくない状態になっている。

 ひょっとすると一般国民の見えないところで「仕事師」として面目躍如の「実務能力」を示し「ぶれずに突き進んで」いるのかもしれないが、それが伝わっていない時点で、民心をつかむのに失敗していると言われても仕方がないだろう。少なくとも安倍前総理にはいかなる時にも熱烈な支持者が存在していた。

 歴史にイフはないとしても、あの9月、他にどのような選択肢があったのだろうか。派閥の力で早くから菅氏の圧勝が見えていたこともあり、当時総裁の座を争っていた2人とどのような政策や国家観の違いがあるか、といったことはほとんど注目を集めなかった。「どうせ勝つのは菅さんだからさ」という空気が蔓延していた。「2位は誰か」といった興味ばかりが先行して、どの政策が優れているかといったことは置き去りにされていたのである。

 気鋭の政治思想史研究者として知られる先崎彰容・日本大学危機管理学部教授は、新著『国家の尊厳』の中で、あの時、注目すべきは惨敗した石破茂氏の提案していた「防災省」構想だった、と指摘している。日本が誇りある国として生き延びるためには、こうした構想が必要だったのではないか、というのだ。

 どういうことか。以下、同書から引用してみよう。

 ***

 総裁選が終わってから時間がたった今、3氏の誰を支持するかを論じても意味がありません。以下で筆者が論じてみたい点は、自由と民主主義の耐用年数がすぎ、新たな自己像が求められている時代に、いずれの国家像が意義あるものかを検討することにあります。

 結論からいえば、筆者が最も評価したのは防災省の設置でした。具体的な省庁再編というよりも、時代状況を理解する象徴的存在として評価すべきだと思ったのです。どういう意味か、順を追って説明していきましょう。

 まず防災省以外の提案を見ておくと、デジタル庁やデータ庁が提案された理由は、次のように説明できる。今回のコロナ禍の第1波が頂点に達した際、話題をさらったのはマイナンバーカードの普及率の低さでした。電子化の遅れた地方自治体では、職務能力を超える膨大な書類のチェックに忙殺され、担当職員にも国民にも負担を強いた原因は、わが国の紙・はんこ文化にあるというわけです。

 これを改革すべく提案されたのが、デジタル庁でありデータ庁だということになります。業務効率の徹底化を目指しているわけです。デジタル庁という提案に対して、与党批判で飯をくう知識人には、「菅内閣のデジタル庁は、権力による情報管理と国民監視強化につながる!」という人もいます。しかしこの手の批判もまた、(略)、権力vs.市民に閉じ込められた思考停止の意見であることは、いうまでもありません。

 問題はむしろ次の2点にある。

 第一に、監視国家・中国の方が感染拡大の封じ込めに成功している事実を、どう評価したらよいのか。第二に、デジタル庁はあくまでも業務効率化などの手段に過ぎず、それによって何を目指すのか、目的が示されていないことにあります。

 このように考えたばあい、筆者は防災省こそ重要な問題提起であり、はっきりと目的を指し示すと考えたのです。

■暴力化する現代


 理由はこうです。現在の私たちを取り巻く環境は、国際社会でも国内問題でも、加速度的に暴力化が進んでいる。暴力化とは、国際環境では国連の理念が衰退していることが挙げられます。トランプ大統領は、国内の分断をいとわない暴言をくり返し、国連主要機関からの撤退をほのめかす。権力の空白を中国が埋めていく。

 たとえばコロナ禍発生直後、WHOトップであるテドロス事務局長は、感染拡大はパンデミックの状態にはなく、また中国発である事実もないと発言し物議をかもしました。彼の出身国エチオピアが、中国の経済的支配下にあることが影響しているといわれています。WHOだけではなく、今や中国の拠出金に影響され、多くの国や国際機関が中国寄りの発言を強いられている。

 またそれ以前の2016年にも、フィリピンが南シナ海の領有権問題をめぐって、国連海洋法条約に基づき申し立てた裁判がありました。このとき仲裁裁判所がくだした判決にたいし、中国の元外交担当トップが、「ただの紙くずだ」と発言し受け入れない姿勢を示したのです。法の支配を無視して国益を赤裸々に追求する中国の姿勢は、まさに暴力的です。

 すなわち米中主導の現状は、「国際秩序など、しょせん力の強い国のいいなりだ」という暴力的な世界になりつつあるわけです。崇高な理念が紙くず同然の価値になり下がっている。

 一方で、日本国内はどうでしょうか。激甚災害が相次ぎ、自然の暴力が支配を顕在化させている。自然災害を考える際には、最低でも10年前の東日本大震災にまで遡る想像力が必要です。2万人近い日本人がこのとき命を落としている事実を、忘れるわけにはいきません。

 以後、この10年を見るだけでも、熊本や北海道を地震が襲い、全国的に毎年のように巨大台風と風水害に見舞われている。東京都心部の被害地域が、近年開発が進んだ多摩川などの河川沿いだったことは象徴的です。一見、風光明媚に思える場所に競って高層マンションを建てることができたのも、もとをただせばそこが最後のフロンティア、つまり空き地だったからです。理由は簡単で、低地だったからであり、洪水に見舞われやすい湿地帯だったのです。そうした生と死の基本的な事実を、私たちはすっかり忘れてタワーマンションを建てていた。そこに生々しい暴力が襲ってきたのです。つまり私たちは国内外ともに、「死を回避すること、生命を維持すること」という原始的な発想に回帰しつつあるわけです。

 だとすれば、「自衛隊の救助が来るまでの3日間、どう生き延びるのか」「火をどうやって起こして暖をとるのか」「津波から逃げるにはどこに走るか」「国際社会で日本はどうやって生き延びるのか」といった、生の基本を学ぶ時代が、いよいよやってきたのではないでしょうか。

 生と死を身近なものとしてとらえ、考えることこそ、ふたたび求められているのではないか。

 防災省は、日本人がどう生き延びるのかを考える省庁=象徴だと思ったのです。

 このような考えは、筆者が以前、福島県いわき市に住んでいて、東日本大震災の直接の被災者となったことも関係しているかもしれません。被災者の一人としてボランティアに参加した10年前のゴールデンウィーク、一日の作業を終えた後、筆者は瓦礫を積みあげに近くの小学校を訪れました。うずたかく積まれた瓦礫の山、黒々と盛りあがった廃棄物を前にして、筆者はこうした光景をどう思想的に位置づけるべきか、言葉を失いました。

 昨日までは想像もしなかった非日常が、目の前に存在している。非日常が日常と化している。卒業式をするはずだった体育館には、避難民があふれていた。震災の悲惨さを語る言葉はいくらでもありました。でもこうした状況をどう「考える」べきか、思想書や哲学書を参照した思索的営みは、どこにもなかったのです。

 今回のコロナ禍もまた、同様の問いを突きつけてきた。津波は建物全体をなぎ倒し風景を変えますが、ウイルスは何も変えずに人影を奪うことができた。東京のオフィスビルも飲食店も壊れていません。にもかかわらず、人が消えてしまった。非日常が猛然と姿をあらわし、ここでも暴力はたしかに存在したのです。

 ***

 先崎氏が問うているのは、「日本人はどう生き延びるか」という大きな問題であり、それはそのまま国家観にも直結する。

 菅総理はこうした大きな議論にのぞむことができるのだろうか。就任当初から指摘されていた「国家観の欠如」というのは致命的なことなのかもしれない。

デイリー新潮編集部

2021年5月28日 掲載

関連記事(外部サイト)