「コロナ対策の犠牲者は数多くいる」石破茂が恐怖を煽る報道に苦言

「コロナ対策の犠牲者は数多くいる」石破茂が恐怖を煽る報道に苦言

最近読んだ本を手に

■いまここにある「コロナの危機」だけに目を奪われてはいけない 石破茂の異論正論(11)


 政治家は自国のみならず、諸外国の歴史、制度などを教養として身に付けねばならない。石破茂元自民党幹事長はそう説く。こうした教養は、外交・安全保障はもちろんのこと、現在のコロナ禍においても求められる大局観を養うのではないか。石破茂の異論正論、第11回である。

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■政治家に求められる大局観


 前々回と前回、歴史を学ぶこと、本を読むことの大切さについて触れました。外交、安全保障など幅広い分野において、政治家に大局観や見識が求められます。それらを養うには、歴史などへの造詣は不可欠です。

 とりわけ近代史をどう捉えるかは重要です。たとえば、北朝鮮から見たら、世界はどう見えているのか。それを推し量るには彼らの歴史を学ぶのが一番近道です。

 同盟国や友好国についても同じことで、国の数だけ、ものの見え方がある。みんなが私たちと同じ目線で世界を見ていると考えては、ことを誤ります。たとえば、イギリスはなぜいま、この地域に航空母艦を派遣してくるのか。それを理解するには大英帝国の植民地政策、アジア政策について知るのが手っ取り早い方法です。フランスのコロナ対策の傾向について知るには、革命以降のフランスの多くの政体のたどった価値観の変遷を追うのが実は近道です。

 このような、いわばバックグラウンドについて頭に入れておく、というような作業は、官僚組織にはあまり向いていません。もちろん例外はあるもので、時々、おそろしく幅広い知識を持っている方もおられます。

 しかし一般的に言えば、官僚として求められるのは現在の法律、現在の問題についての知識ですから、歴史まで含めた大きな見方となると、やはり政治家に求められるところではないでしょうか。


■私の勉強法


 週に1回は、大型書店、主に八重洲ブックセンターに行くのが習慣となっています。書店の棚を見ると、読んだことのない本が毎回、数多く並んでいます。

 一つの分野、国について理解しようとするだけでも、膨大な数の書籍に目を通す必要があります。官僚からのレクチャーはある意味、必要最低限をカバーするものだと思った方がいいと思います。

 それにどれだけ上乗せして考えられるか。世界とは何か、宗教とは何か、現代政治はどう動くか。そうした大きなことについて、政治家は自分の言葉で語れなければならない、と私は考えています。

 多くの先人が、そのためには古典を読むべきだ、ということを示唆しています。そのとおりで、長い年月を経てなお生き残っている書物には学ぶべきところが多々あります。

 個人的には、若い頃から小室直樹氏にも大変影響を受けました。異端の学者として知られる小室氏ですが、その安全保障や政治、社会についての指摘はいまなお参考にすべき点が多々あります。その後継者とも言うべき橋爪大三郎氏の著作にもいつも蒙を啓かれる思いです。「ああそうだったのか」と思う。

 あくまでも私個人のスタイルですが、はじめに広くテーマについて学ぶ中で、「この人の視点が面白い」と感じたら、その人の著作をできるかぎり読んでみることにしています。私淑ということになりますが、一度とことんその著者の思考法や知見を追いかけます。例えば小室氏、橋爪氏、あるいは半藤一利氏や保阪正康氏です。近現代の歴史、特に大戦前後のことをリアルに語れる方で、ご存命なのはもう保阪氏くらいかもしれません。

 先日、自民党政治大学院で、その保阪正康氏を講師として石橋湛山について学ぶ機会がありました。そこで、ロンドン条約締結の際の統帥権干犯事件についての見解をご教示いただき、深く納得し、また共感したことでした。

 保阪氏は、「統帥権の独立よりも、陸海軍大臣現役将官制の方が弊害は大きく、それがこの問題の本質である」と指摘され、これは正鵠を射たものと思います。保阪氏や半藤氏の著作を読むにつけ、近現代史に関する自分の知識と理解の浅薄さに気付かされます。

 ヤルタ会談とは何か。ズデーテン侵攻とは何か。ポツダム宣言とは何か。

 こうしたことを体系的に頭に入れておくことが、外交においても、また将来の有事においても、必ず役に立つと考えているのです。

 本を読みこむときは、大切なところに線を引きます。そうやって頭に入れて、咀嚼できたら、講演などでその話を取り入れてみます。こうして少しずつ、自分の言葉にしていく努力をします。

 より本質的なことは、自分で本などを読んだり、人に話を聞いたりして学び続けるしかありません。


■新型コロナとリテラシー


 新型コロナ対応を考える際にも、大きな視点や歴史の知識、科学的・論理的な思考が求められるでしょう。

 以前にもお話ししましたが、昨年来のコロナ禍において、メディア・リテラシー、あるいはヘルス・リテラシーの低さが、結果として適時適切な政策の立案や実行を妨げているのではないか、と心配になることが多くありました。メディアがコロナの恐怖を強調しすぎて、インフォデミックのような状況を生んでいるとも述べました。

 この問題に関しては、前々回にもここで述べ、かなりの反響をいただきました。

 新型コロナ関連の報道では、メディアの姿勢に疑問を感じる場面が相変わらず多くあります。

 ラジオ日本の「岩瀬惠子のスマートNEWS」という番組に出演した時のことです。この番組には度々出演していて、岩瀬さんはどんなこともよく掘り下げておられ、伝える姿勢はとても冷静で偏りがないと感じています。さて、先日の出演の際に、コロナの政府対応についての話題となり、私は次のようなことをお話ししました。

「緊急事態宣言は、はじめは医療の逼迫を防ぐため、と言っていました。そしてその間に医療資源を確保する方策を取ったのですが、残念ながら抜本的に、というところには至っていません。

 注視すべきは医療の逼迫度であって、連日発表される検査陽性者数の数ではない、と私は思っています。そもそも検査陽性と感染とは同一ではない。また、日本のPCR検査の感度は極めて高いので、結果として陽性者が多くなりやすい。しかし、感染者数(実際には陽性者)が多いことよりも、重症化をいかに防ぐか、を目標にすべきなのではないでしょうか」

 私にしてみれば、ごく普通の常識的な意見だと思うのですが、岩瀬さん含め、その場にいた方々は「えっ、そうなんですか?」といった反応でした。そのことが逆に私にとっては驚きでもありました。

 テレビなどのニュースではほとんどが「今日の感染者が○○人」ということで一喜一憂しているから仕方がないのでしょうか。

 しかしこうしたことも、関連の多くの書籍に目を向ければ、ある程度バランスの取れた見方が可能になるかもしれません。

 獣医学の権威である唐木英明・東大名誉教授は、日本では新型コロナの脅威はインフルエンザと大差はなく、情報によって恐怖が増幅されている旨、語っています。がんの放射線医療の専門家である中川恵一・東京大学特任教授も、他のさまざまな病気や死亡原因と冷静に比較すべきだという主旨のお話をしていらっしゃいます。しかし、こうした意見はあまり取り上げられていません。

 雑誌では「週刊新潮」もこうした少数派の方たちと近いスタンスのようです。余談ながら、いつもは似たようなスタンスのことが多い「週刊文春」は恐怖を煽る論調なので、どちらが支持を得ているのかは個人的に興味深いところです。

 結果として、コロナの恐怖を煽りすぎない論調のほうがあるべき方向ではないかと思いますが、それが部数とリンクはしていないようです。


■今こそ「正しく恐れる」べきでは


 ともあれ、コロナに関しては「正しく恐れる」からかけ離れた言説ばかりがメインメディアで大きく取り上げられることが多く、ここでお名前を挙げたような言論人や専門家が少数派のようになっているのは、とても不穏に思います。「それはおかしいのでは」ということを言いづらい雰囲気になっているのではないだろうか。それこそ、戦時中のような感じになっていないだろうか。

 私は「コロナはただの風邪だ。なにも気にせず動き回れ」などと主張しているわけではありません。ただ、適切な予防策を取りながら、ある程度の行動を許容しなければ、いわゆる「人流」を止めることによる社会的弊害が大きすぎることを指摘しているのです。そして予防策の中でも、実効性のあるものと無いものをもっと科学的な見地できちんと区別すべきだと考えます。

 新型コロナの流行によって、昨冬はインフルエンザが流行しなかった、ということはある程度知られています。その理由については諸説あるようで、「みんなが手洗い、うがい、マスクを徹底したから」という解説をする方もいらっしゃいます。それも理由の一つなのでしょう。

 しかし、それだけでここまで減るものかは疑問です。私の地元、鳥取県では昨年のインフルエンザ患者数は何と2人だったと聞きました。全国的には例年の千分の1だそうです。

 この差を見ると「交差免疫」説も一定程度有力のように思います。要するに、2つのウイルスが同時に広がることはなくて、一つが流行すると、もう一つは入る余地がなくなる、ということです(かなり大雑把にまとめました)。

 インフルエンザの感染が減り、それによる死者が減ったことは良いことのようにも思えます。実際に昨年の日本の死者数はその影響もあって減っているわけです。

 しかしここで、ではコロナが収まり、来年、インフルエンザが流行した時に、メディアはどうするのだろうか、という疑問が浮かびます。現在のような感じで「感染者数」と「死亡者数」をまた連日報じるのでしょうか。少なくとも若年層に限っていえば、新型コロナよりもインフルエンザのほうが死者は多いのです。

 仮に現在のような報道のトーンでインフルエンザについても伝え続けたら、結局、また多くの人が「ステイホーム」を強いられることになりかねません。

 インフルエンザではなく、新・新型コロナウイルスが入ってくるかもしれません。その時もまた、とにかく人流を抑えて、飲食店には自粛をお願いして、とやるのでしょうか。

 すでに今の時点で高齢者をはじめ国民が引きこもるようになったデメリットは看過できないレベルになっています。経済面はもちろん、個人の健康を考えても、体を動かさないことで、体力は落ち、うつになる。あるいは生活習慣病が悪化する。これらは確実に個々人のダメージを超えた社会的ダメージとなります。

 また、ステイホームによって絆が深まった家庭もあるでしょうが、一方でDVが増えていないかも心配です。3月に警察庁が発表したところによれば、全国の警察に寄せられたDV相談数は過去最高を記録したといいます。

 自殺者数が増加していることも、たびたび報じられています。

 このように、直接コロナに感染したり、亡くなったりしていなくても、コロナ対策の犠牲者は数多くいる。そのことを忘れてはなりません。

 このような過度な自粛による弊害については、「とりあえず考えない」かのような言論ばかりが幅を利かせ続けています。

 この奇妙な言論空間には違和感を覚えざるをえません。

 もう少し以前には、新聞などではある程度幅のある見解、多様な見方を示して、それらに基づいた提言などをしていたと思うのですが、ことコロナに関しては、「こんなことがありました」「こんなに困っている人がいます」という単なるレポートばかりが紙面を埋めているように思えてなりません。

 医療の逼迫についても、当初と同じような「状況説明」に過ぎない報道ばかりが続いています。

 人流の抑制で感染をコントロールする、というのは、感染症の性質が分からない時には正しい対応かもしれません。が、ある程度感染症の特性が明らかになったなら、できるだけ科学的に細分化した対応を考えるべきだと思います。飲食店などの制限も、1人当たりの容積率や空間の換気率などを加味すべきだと思いますし、時間で区切ることよりも態様で制限をかけることを追求すべきではないでしょうか。

 メディアにばかり注文をつけるつもりはありません。私たち政治家も、刻々と変化する状況にあわせて対応を適時適切に変えていかなければなりませんし、現状を踏まえて、将来を見据えていかなければならない、と強く感じています。

2021年7月28日 掲載

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