「こうすれば一発解決」は信用できない 石破茂が訴える「そもそも論」の大切さ

 その時々の週刊誌報道などをもとに「政府の問題点」を突く野党。それにまともに答えずはぐらかす政府。「こんな政府のもとでは審議ができない」となって膠着状態に。

 もう何年も国会で繰り返されている演目である。

 その結果、本質的な問題を議論することは常に先延ばしになってきた。

 しかし「そもそも論」を避けることは、国民、国家にとって大きな損失ではないか――石破茂の異論正論、第15回である。


■「そもそも論」を軽視する風潮 石破茂の異論正論(15)


 自民党総裁選が、9月29日に開票となり、私の支援した河野太郎氏は2位に終わりました。この間、ご支援いただいた方には心から御礼申し上げます。そして論戦が終わり、結果が出たからには一致結束するのが自由民主党。岸田新総裁のもと、国民、国家のためにできる限りのことをしていきたいと考えております。

 さて、前回のお話の続きです。前回(総裁選が本格化するよりも前に書きました)、国のグランドデザインのような大きな問題を政治は考えなくていかなければならない、そうしないと日本は立ち行かなくなる、といったことを書きました。

 これはずっと私が訴え続けていることでもあります。

 ところが、こういう話をすると必ず「そんなことはいいから、どうすれば解決できるのか。早く答えを言え」といった反応が必ずあります。あるいは「評論家じゃないんだから早く案を出せ」と。

 しかし、ワンポイントの政策で解決できるような話ではないからこそ、ある意味仕方なく先送りされてきたともいえるのです。

 仮に日本が抱える諸問題について「こうすれば一発解決」式の話をする政治家がいるとすれば、私は信用できません。

 たとえば前回述べたように税制を変えることで好転することはあるでしょう。それによって個人の可処分所得を増やすことはできる。経済を好転させるきっかけにはなりえます。

 また、近年私が取り組んできた地方創生も持続的な国づくりには欠かせない政策です。できることはすぐに実行に移すべきでしょうし、大臣でいる間に手をつけ実現させたことも数多くあります。

 しかし、これら個々の政策でグランドデザインを変えることはできません。一つの内閣だけでできるものでもありません。

 そろそろ与野党関係なく、共通の地盤で議論をする必要があるのではないでしょうか。その場合には、共通の資料、認識が必要となります。たとえば前回ご紹介した国交省の資料もその材料となることでしょう。

 国のグランドデザインをどうすべきか、といったことは前述の通りあまり受けません。「そもそも論」のようなものは一般の国民にも好まれないのです。しかもこの先、政治は「果実の分配」のような美味しい話だけではなく、むしろ「不利益の分配」について正直に国民に伝えなければなりません。

 政治家も官僚もメディアも「そもそも論」を避け、また時には嘲笑し、「そういう話はまた今度」と先延ばしにし続けてきました。

 その結果、少子高齢化に歯止めがかからず、経済も伸び悩み、格差の拡大に多くの人が不満をいだく状況が続いています。そしてコロナ禍によってより事態は深刻になっています。

 もちろん急いで手を打つべき政策は多々ありますが、“そもそも”魔法の杖のような政策は存在しないということを直視すべきです。その上で、自公のみならず責任ある政党であれば共有できる問題意識はあるはずで、そこから大きな議論をすることが必要なのです。

■憲法改正の目的


 第2次安倍政権下で、憲法9条の改正を優先させる改憲論議が進みかけたことがありました。自衛隊を明記する条項を加える、というものです。

 この時、私は異論を唱えました。それまで自民党内で決めていた改憲案とはまったく別の思想によるものだったからです。そして、“そもそも”何のための改憲なのか、がかえってわからなくなってしまう懸念があったからです。

 が、当時の私の意見はかなりのご批判を浴びました。「とにかく改憲するのが優先なのだ。お前のそもそも論なんて聞いていたら時間がかかって仕方がない」というところでしょうか。私は、憲法改正は最終目的ではなく手段であると考えているので、こうした考え方には賛成できませんでした。

 しかし、コロナ禍で日本が直面したのもまた、そもそも論を避けてきたツケなのではないでしょうか。コロナ対策のロックダウンに関連して、にわかに「緊急事態条項が必要だ」という議論が提起されましたが、“そもそも”緊急事態条項とは何か、ということを平時から冷静に考えてこないから、何かあった時に的を外した大騒ぎになるのです。

 以前、日本国憲法に緊急事態条項がないことについて持論を書いた私の文章を、以下に引用してみます。

「国家とは、国民の自由や権利、言論の自由とか結社の自由、集会の自由、思想・信条の自由、そういうものを絶対に守ってくれる存在であってほしい、あるべきだという点においては多くの人が合意するはずです。(略)

 国家そのものが危機に瀕したときに、その国家なるものを守る目的に限局して国民に義務を課し、国民の権利を制限する。これは当然のことです。国家がなくなってしまえば、個人の自由も権利も守られなくなるでしょう。

 このような意見に対しては、かならず感情的になって『それは国民を戦争に導く論理だ』、『国家よりも国民が大事だ』と叫ぶ人が現れます。けれども、ここで言っているのは、あくまでも戦争(有事)などの非常事態における対処として、期限を区切ってのことです。こうした条項は、どの国の憲法にも定められているものです。かつて我が国の大日本帝国憲法においては、非常大権を陛下がお持ちでした。

 ところが、今の日本国にはそのような権限はどこにもありません。日本国憲法にはそうした条文が存在しないのです。これが、一つ目の欠けているものです」

 これは前回も引用した拙著『国難』の中の文章で、2012年、野党時代に書いたものです。

 もしもこの当時から、国家の存亡にかかわるような事態における行政権への時限的委任について国民的な議論をしていれば、コロナ禍における私権制限についても、国民の間で一定の共通理解があったのではないでしょうか。今に至るまでほとんどこれを議論してこなかったことが、コロナ対策の迷走の一つの背景にあったと思うのです。

 このように考えると、「そもそも論」がとても大切だということも共感していただけるのではないでしょうか。与野党を問わず、大きな議論をする必要があるという認識を共有したいものだと思います。

2021年10月13日 掲載

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