戦後の共産主義者釈放、歓迎会の主催は朝鮮人団体だった 「赤旗」の再刊資金の出どころは

戦後の共産主義者釈放、歓迎会の主催は朝鮮人団体だった 「赤旗」の再刊資金の出どころは

韓徳銖・朝鮮総連中央本部議長の「主体的海外僑胞運動の思想と実践」出版記念会(1986年8月8日)

 釈放された共産主義者たちは、そのまま東京・西新橋の飛行会館へと向かい、「自由戦士出獄歓迎人民大会」に出席して熱狂的な歓迎を受けた。だがその参加者もほとんどが朝鮮人で、赤旗とともに太極旗が至る所で振られていた。これも主催は朝鮮人団体だったのだ。

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 1945年10月10日、府中刑務所前の出獄式に参加した朝鮮人連盟(朝連)準備委員会と日本人共産主義者は、雨天のために式を早々に切り上げ、トラックに分乗した。一行は、東京・西新橋の飛行会館(現・航空会館)で催された「自由戦士出獄歓迎人民大会」へと移動した。当初、歓迎会は日比谷公園に予定されていたが、雨天のため急遽飛行会館に変更となった。

 この大会に出席し、後に作家となる崔碩義は、在日朝鮮人運動史研究会の会誌に寄稿した「八・一五解放前後の舞鶴の思い出」で次のように回想している。

「十月十日には朝連の事務所で教えられて、芝の田村町の飛行会館(内幸町NHKの近くにあった)で開かれた歴史的ともいえる『自由戦士出獄歓迎人民大会』を見物にいった。目当ての徳田球一、金天海の姿は結局みられなかったが、金斗鎔が演説するのを聞いた。場内は圧倒的に朝鮮人が多く、熱狂的な雰囲気であった。私は生まれて初めてこんな光景に接し、わけが分からないまま興奮したことをよく覚えている」


■占領軍のMPが多数動員


 徳田球一、志賀義雄ら「府中組」は、占領軍の事情聴取により出席できなかった。だが、定員600人の講堂は満員で、各階の廊下や周辺の街路に人があふれていた。飛行会館の講堂やその玄関前、街路でも赤旗や太極旗が振られ、「解放戦士万歳!」「戦争犯罪人を処罰せよ!」といったスローガンが繰り返し唱和された。

「その集会は熱気がむんむんしていて、初めての経験でした。これからは共産主義の世の中になるという雰囲気だった。戦争中でも節操をまげずに闘った共産主義者たち。この時いろんな人が演壇に立って演説したが、朝鮮人でひとり金斗鎔が光っていた」(吉見義明・川田文子「崔碩義氏からの聞き取り〈第1回〉―ある在日朝鮮人の戦前・戦中体験と戦後体験」『中央大学商学論纂』第52巻1・2号)

 それまでは軍国少年、皇国少年だった崔碩義も、この「自由戦士出獄歓迎人民大会」に出席した多くの朝鮮人青年たちと同じように、一夜にして朝鮮の愛国者になった。

「一言でいったら、若い我々が新朝鮮を建設して、いい国にしようという、ごく普通の考えでしょうね、自然にそうなりました」(崔・同前)

 参集した人数は諸説ある。沿道にあふれかえる人々の警護のため、占領軍のMPが多数動員された。


■出獄声明書の中身は


 会場では、府中刑務所の獄内で徳田球一や志賀義雄が準備した出獄声明書「人民に訴ふ」が売られていた。そして午後5時少し前、占領軍に対する感謝デモの実施を決議して、会は閉じられた。

「人民に訴ふ」は全部で7項あり、第1項に「ファシズム及び軍国主義からの世界解放のための連合国軍隊の日本進駐によって、日本に於ける民主主義革命の端緒が開かれたことに対して我々は深甚の感謝の意を表する」と書かれ、占領軍を解放軍と位置づけ感謝をしている。

 第2項では、「米英及び連合国の平和政策への積極的な支持」を打ち出し、また第3項では「天皇制の打倒」と「人民共和政府の樹立」を掲げている。第4項では、「軍国主義と警察政治の一掃は人民政府によってのみ遂行される」としている。第5項は、土地の没収と無償分配、労働組合の自由など生活改善、18歳以上の男女への選挙権の付与と国民議会の建設、刑法中の皇室に対する罪、治安維持法、治安警察法の撤廃などをあげている。第6項には天皇制の権力と妥協した勢力の否定。第7項には「釈放された政治犯人」すなわち共産主義者がこれらの任務を担い、この目標を共にする団体や勢力と統一戦線をつくり、人民共和政府を樹立する方針を掲げている。


■再建共産党の原点


「人民に訴ふ」は、再建期の日本共産党の方向性を示す重要な文書である。戦後はじめての日本共産党の綱領が1945年12月、19年ぶりに開かれた第4回党大会で決定された。綱領は、党活動の目標、および根本方針を明らかにするものである。前文には、「天皇制の打倒」と、「連合国軍」の日本進駐により民主主義変革の端緒が開かれ」たと書かれている。この2点は「人民に訴ふ」に明記されていることから、同文書は再建日本共産党の原点といえよう。

「『人民に訴う』はすでに府中刑務所の中で活版刷りのものを用意していました」

 こう回顧するのは、府中刑務所の予防拘禁所で、徳田球一と共に過ごした山辺健太郎である。

「『人民に訴う』は、徳田君が草稿を書いて、私たちも意見を述べた。徳田君は直言すれば聞く人だったけれど、『獄中一八年』という威力があるから、文句をいう人が誰もいない。それで通ってしまうんですね」(山辺健太郎『社会主義運動半生記』岩波新書)

 日本共産党再建に向けてもっとも重要なこの声明文は、徳田球一ほか日本共産党幹部が、府中刑務所の獄内で準備をし、10月10日の朝、日本人党員の吉岡保の手で上野稲荷町の桂山印刷所から、出獄歓迎人民大会が開かれた芝の飛行会館までオート三輪で運ばれたという(大森実『戦後秘史4 赤旗とGHQ』講談社)。

 これについては、日本人共産党幹部の手で準備されたことは疑う余地もない。そしてそれが最初に世に出た場所は、「自由戦士出獄歓迎人民大会」だったのである。


■主催者は誰だったのか


 では、この飛行会館で開催された「自由戦士出獄歓迎人民大会」の主催者は誰だったのか。

 これについては見解が分かれている。

 日本側の資料である大原クロニカ『社会・労働運動大年表』解説編では、

「解放運動犠牲者救援会の主催で開催された」

 と、主張している。

 この「解放運動犠牲者救援会」は耳慣れない名称だが、実は日本人共産主義者で代々木の党本部を日本共産党に寄付した岩田英一の回想に出てくる。

「解放運動犠牲者救援会と自由法曹団の弁護士を中心に、在日朝鮮人のグループも加わる形で準備しました」(吉田健二「戦時抵抗と政治犯の釈放――岩田英一氏に聞く〈3・完〉」法政大学大原社会問題研究所)

 要は「主体は日本人共産主義者である」という見解である。

 同氏は当時の状況について、

「私は黒木重徳に求められ、実行委員の一人として集会設営の責任者をつとめた。(略)実行委員会は前日中に、府中刑務所、朝鮮奨学会の会館、梨木(作次郎)弁護士の事務所において会合をもち、式次第や、大雨で屋内集会になった場合の会場をどこにするかについて相談しました」

 と、解説する。


■在日本朝鮮人連盟の正式見解


 一方、在日本大韓民国民団(民団)の団長となる権逸は『権逸回顧録』において、出獄歓迎式典は朝鮮人連盟準備委員会の単独主催であるとの見解を述べている。

「共産主義者たちは、名前すら聞いたことがない『自由法曹団』とか『自由労組』とか言う十余りの偽装団体を急造して、朝連準備委と共同で日本共産党員出獄歓迎会を開催したように偽装したが朝鮮人連盟準備委員会単独で開催した」

 朝鮮総連(北朝鮮)の母体となる在日本朝鮮人連盟の正式見解もみてみよう。1946年10月に大阪中之島公会堂で開催された在日本朝鮮人連盟の第3回全国大会において、後に朝鮮総連の議長を務めた韓徳銖が行った発表を、『朝鮮人強制連行の記録』の著者・朴慶植が「在日本朝鮮人連盟第三回全国大会総務部経過報告」として、まとめた文書がある。そこでは「出獄戦士歓迎人民大会」の出席者の大半が朝鮮人であり、朝連が組織した政治犯釈放運動であったと紹介した上で、

「ここで一つ記録すべきことは、十月十日日比谷飛行会館にて行われた『出獄戦士歓迎人民大会』四千の会衆の大部分が朝鮮人であり、あの憎悪の的だった天皇制打倒を高喊し、あの民主勢力提携を叫んだこと、実際においては政治犯ですら『○○罪』、『××罪』として別の罪名で投獄された数多くの先覚者たちがわが朝総の政釈運動によって出獄したことである」

 と、主張している。

 南北朝鮮の団体に関わる諸氏はいずれも、政治犯の釈放において、形式上、日本人共産党員の顔も立てるには立てるが、出獄式と歓迎式典は、朝鮮人連盟準備委員会が単独で準備し、主催した話という見解を示している。


■準備は朝鮮奨学会ビルで


 どちらが正確なのだろうか。

 当時の関係者の証言から総合的に判断すれば、やはり朝鮮側に軍配が上がるのではないだろうか。

 岩田が準備会合を開催したとする日本人共産主義者の拠点に梨木作次郎弁護士の事務所があげられている。当の梨木は、

「政治犯の釈放に向けた取り組みが朝鮮人運動家のほうが私らより早かったことは確かです」(吉田健二「救援運動の再建と政治犯の釈放〈3・完〉――梨木作次郎氏に聞く」大原社会問題研究所)

 と証言している。

 また、毎日新聞社出身のジャーナリスト大森実は『戦後秘史4 赤旗とGHQ』(講談社)の中で、日本人共産党員・吉岡保の終戦後の回想を紹介している。

 吉岡は、10月7日の新聞記事でマッカーサー司令部の政治犯釈放命令が発されたことを知り、記事に連絡先として紹介されていた麹町区富士見町の栗林敏夫弁護士宅を訪れた。さらに翌8日には淀橋警察署が入居している朝鮮奨学会のビルを訪問した。当時、その2階は金斗鎔たちが占拠し、「出獄歓迎準備会」の準備をしていたと語っている。

「吉岡が淀橋警察署の建物に近づくと、入口に『朝鮮人解放連盟』と大書した看板が目を引いた。二階にあがると、三十人ぐらいの朝鮮人同志がいた。指導者格は金斗鎔と朴恩哲で、二人が交替で議長役をやっていた。出獄歓迎準備会の実際の活動はこの二人がやった」

 1945年10月10日に出獄した志賀義雄たちをGHQが尋問した際に作成した文書(1945年10月12日に作成した原資料の写し)を入手したところ、志賀の投獄前の住所は、在日本朝鮮人連盟準備会のある新宿・角筈の朝鮮奨学会ビルの住所であった。出獄時に志賀が拠り所にしていたのは、やはり金斗鎔たち在日本朝鮮人連盟であろう。


■武装した朝鮮人連盟の人間が警護


 ちなみに、志賀の出所後の住所は、徳田同様国分寺の「自立会」になっている。

 戦時中、豊多摩刑務所に政治犯として収容されていた共産党幹部・寺尾五郎は、徳田たち府中組が出獄後、「国分寺町(東京都北多摩郡)の司法省の保護施設である『自立会』に居を定め、党の再建に着手した」と記しているのと符合する(「証言 日本の社会運動 『前衛』創刊のころ――寺尾五郎氏に聞く〈2・完〉」大原社会問題研究所)。

 この「自立会」周辺は、武装した朝鮮人連盟の人間が警護していた。つまり「府中組」を朝鮮人が護衛していたのである。

 一方で寺尾本人は、国会議事堂の貴族院内の食堂を経営していた国峰実の貴族院内の一室に転がりこみ、活動の拠点としていた。

 寺尾の回想では、出所後、各地にバラバラになった共産党幹部の居場所を探し当て、相互に連絡を取ることは一苦労だったようである。


■「赤旗」の再刊資金


 こうして共産党第1世代たちは府中刑務所から出獄し、党の再建に向けて一歩を踏み出すことになる。だが、組織を再建するには資金と人材、そして拠点が必要だった。これらは誰が準備したのか。

 全国協議会も、第4回党大会も現在の代々木の日本共産党本部において開催されたが、これは、日本人共産党員である岩田英一(前出)が終戦の半年前まで所有していた東京電気溶接学校の土地と建物を、1945年1月6日に党に寄贈したものである。

 その岩田は、自身の貢献や朝鮮人共産党員の貢献が、日本共産党の党史をはじめ、日本共産党の幹部の回想などに全く記載されていないことについて不満を述べていた。

「当時『赤旗』の主筆は志賀です。志賀が何かの本に書いていたけれども、『赤旗』第2号と3号の製作費や用紙の購入費も保坂(浩明=金秉吉)が全額これを負担しています。けれども『日本共産党の60年』(1982年)など宮本体制のもとで編まれた党史は、私の件――党本部となった土地建物の寄贈や金銭の寄付を含めて一切これを紹介していない」(吉田・同前―岩田氏証言)

「赤旗」「前衛」などの中央機関紙誌の担当者は、戦後の物資が乏しく経営が厳しいなかで、資金の工面から始まり用紙の調達・印刷所の確保まで、朝鮮人党員の協力を得て、10月20日の「赤旗」再刊にこぎ着け、記念すべき党再建への一歩を踏み出す。これらを安定的に刊行することで組織の方針を党員に発信し、組織政党として再建への道を歩みはじめるのだ。


■資金は朝鮮人共産主義者に依存


 日本共産党史にはこうした話は出てこない。だが、そこから省かれているのはこれだけではない。

 党の再建にとってもっとも重要なマンパワーと資金は、その多くを朝鮮人共産主義者に依存せざるをえなかった。

 公安調査庁法務事務官の坪井豊吉は、法務研究報告書に、「再建日共が朝連の中で誕生」し、日本共産党がしばらく、新宿・角筈の朝鮮奨学会ビルの2階にある朝連事務所を活動の拠点として使っていたと記している。

「その後も日共再建の協議と運動は、この朝連事務所を中心として展開され、その間の経費(集会場費、自動車、文書、赤旗再刊)などは、すべて朝連から支出されていた。したがって日共は、朝連側を徹底的に利用していたようで、当時は徳田球一も常に朝鮮人党員の行動性を重視し、好意的な煽動的言動で接していたと伝えられている」(坪井豊吉『在日朝鮮人運動の概況』法務研究報告書 第46集 第3号)

 また、朝連関係者の証言や史料にも同様の記述がみられる。

 敗戦後、占領下の日本で、日本共産党の再建を支えた朝連が、いかに誕生し、その財源がどこから来たのか。

(敬称略)

近現代史検証研究会 東郷一馬

「週刊新潮」2022年3月17日号 掲載

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