日本共産党の“裏歴史” 戦後結集した「朝鮮人組織」と共産主義者

日本共産党の“裏歴史” 戦後結集した「朝鮮人組織」と共産主義者

金斗鎔

 戦後の混乱の中、「朝鮮解放」「民族独立」などを掲げて続々と朝鮮人組織が誕生するが、ほどなくそれらを糾合しようという動きが起こった。そして日本政府に協力していた団体から共産主義者までが一堂に会することになる。その時すでに「陰謀」は始まっていた。

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「政治犯釈放運動」を始めた金斗鎔ら共産主義者たちと同様に、玉音放送にいち早く反応したのは、戦前から日本政府に協力してきた親日朝鮮人団体の指導者たちであった。彼らはラジオで裕仁天皇の言葉を耳にすると、その3日後には「在留朝鮮人対策委員会」を結成した。

 政府は35年にわたって朝鮮民族に皇民化教育をし、「内鮮融和」「内鮮一体」を目指して、相愛会や協和会(のち興生会)といった朝鮮人親睦団体を支援してきた。こうした愛国的性格を持つ団体の長たちは、日本敗戦の声を聞くや同胞が故郷の土を踏もうと怒濤のように帰還していく姿に、自身の組織が求心力を失うことを恐れ、即座に対応を図ったのである。


■朝鮮人ブローカーが暗躍


 すでに8月初旬から、本土決戦に備える日本人を横目に見ながら、200万人を超える在留朝鮮人は、労務動員者を筆頭に、空襲を逃れ朝鮮に疎開しようと、博多、仙崎などの港に殺到し始め、帰還を急いでいた。終戦前の下関では5千人が渡航する船を待っていた。

 終戦後は日本国政府もGHQも「秩序立った帰還」への組織的対応を求めた。政府は「応徴士」を優先した人員輸送を実施するため、中央興生会に引揚業務を委託したものの、現場の統制は利かなかった。大戦で大型の輸送船を数多く失い、「遠洋航路向けの船は二、三隻しかなく」(「読売報知」1945年9月7日)、1日に輸送できる人数は限られていた。このため朝鮮人ブローカーが暗躍し、半島から日本人を乗せてきた中古の闇船に朝鮮人が乗り込み、危険を顧みず次々と波高い海峡を渡っていった。


■日本人との摩擦を解消する人物


 こうした混乱の中、朝鮮人を統制し、各地で生じていた日本人との摩擦を解消する強いリーダーシップを持つ人物も待たれていた。その一人となったのが、のちに在日本大韓民国民団中央団長となる権逸である。

「八月十八日になると、いわゆる一心会派の権藤嘉郎(権逸)丸山修司(鄭寅学)木原茂(李在東)らの従来からの指導者らによって、東京都杉並区に『在留朝鮮人対策委員会』がまず結成された。(略)こころある指導者たちは、これらの帰国を急ぐ同胞の引揚問題、日鮮人同士の摩擦問題、同胞の秩序と福利厚生などの諸問題について、まずなによりも組織をもつことを叫んだ。そして東京では、はやくも八月十八日に杉並区に『在留朝鮮人対策委員会』が組織されたのを皮切りに、都内各所に同じ目的をもつ団体が、ぞくぞく組織されていった。これは東京だけではなく、大阪でも京都でも神戸でも全国いたるところで、いろいろな名前の群小団体が組織されていった」(坪井豊吉『在日朝鮮人運動の概況』法務研究報告書)

 権逸は在日朝鮮人の巨頭である。権赫周、権藤嘉郎という名前も持つ。民団の中央団長を務めた後は帰国して1967年より韓国国会議員となり、戦後の日韓関係の一翼を担った。

 だが戦前は満洲国の官僚養成機関である大同学院に学んで、満洲国の法務官を務めていた。引用文に出てくる一心会は、朝鮮人の処遇改善に感謝の意を表し、埼玉県高麗神社の近くの地下飛行場建設事業遂行のため結成された朝鮮人組織である。なお先の相愛会は、戦前の国会議員を2期務めた朴春琴が中心となり、大正時代より日本の事業現場に人材を派遣し労働者の世話をする団体であった。


■石原莞爾の志に共感


 権逸は敗戦の日を、東京からそう遠くない群馬県新治村の湯宿という温泉場で迎えている。

 その家族はB29の空襲を避け一足先に湯宿に疎開、権逸は中野区上高田の自宅に曹寧柱(のち民団長)らと残っていたところ、8月7日、大日本帝国陸軍の石原莞爾将軍の弟・六郎が広島に新型爆弾が落とされたという知らせを持ってやってきた。話を聞くや権逸は、

「この新型爆弾が原子爆弾であることは間違いなく、これで戦争は終わるのだと判断した。その三日後の九日には長崎にも原子爆弾が落とされた。次は東京だという噂も出た。私たちはこのまま東京にいて犬死にすることはないと、曹寧柱君といっしょに急いで東京を抜け出し、家族がいる湯宿に向かった」(権逸『権逸回顧録』)

 彼が石原莞爾の知己を得たのは、満洲の大同学院時代だった。爾来、権逸は石原の五族協和の志に共感し、東亜聯盟の夢を信じて同胞に尽くしてきた。

『世界最終戦論』で知られる石原は、関東軍作戦参謀として満蒙領有計画を立案、板垣征四郎等と1931年、満洲の奉天(現・中華人民共和国の瀋陽)で、南満洲鉄道を爆破した柳条湖事件(満洲事変)の首謀者である。東京裁判の出張尋問では、

「満洲国建国に最も深くかかわったのは自分であり日本の戦争責任を裁くのなら戦犯第1号は自分である。まずは私を裁判にかけよ」

 と自らを戦犯に指名することを求めたが、東条英機と対立し左遷されていたために、戦犯を免れている。


■朝鮮民族としての解放の喜び


 その石原莞爾の実の弟がわざわざ新型爆弾が落ちたことを知らせに来たのだ。当時から権逸はよほどの重要人物であったのだろう。

「日本の無条件降伏を知らせる裕仁天皇の震える声が放送されたのは、湯宿に到着して二日後の八月十五日のことであった。戦争は終わった。民族は解放された。虚脱感とともに、これで生き残ったという安堵感がまっさきに起きた。日本の敗戦は予想していたことだが、私たちは、米軍が日本本土に上陸して日本軍と一大決戦を展開するものと信じていたから、このような形で戦争が終了するとは想像もしていなかった」(権逸・同前)

 愛国者として日本に仕え、政府に厚遇され信頼されていた人物も、朝鮮民族としての解放の喜びを感じていた。

「私たちの民族は解放された。そして私は死をまぬがれた。民族が解放され改めて生を得たことは、この上ない感激であった。四、五か月のあいだ一日も休むことなく続いていたB29の爆撃に、私たちは何時死ぬか分からないと、戦々恐々として過ごしてきた。その恐ろしい爆撃はもうないのだ」(同前)


■在日朝鮮人たちの組織化


 もっとも権逸は安堵しているだけではなかった。

「解放の喜びもつかの間で、私は複雑な気持ちに陥った。解放になったが私はこれからどうすればよいのか。自分なりに満洲で、あるいは日本で、うちひしがれた同胞の権益を保護するため出来るだけのことはしてきた。しかし、誰が私の努力を認めてくれるであろうか。大日本帝国の大陸侵略の前進基地であった満洲で司法官としての禄を食み、また短い期間ではあったが日本政府の傘下団体で仕事をした。そしてその施策に呼応してきた自分ではないか、このような一連の過去が慌ただしく暗い影になって目の前をかすめた。私は、人生の重大な岐路に立たされているのを感じた。本国に帰るべきか。このまま日本に残るべきか。日本に残るとすれば、しばらくはすべての活動をやめるべきか。それとも、今までのように在日同胞のことに関与していくべきか。私は深刻な悩みを二〜三日繰りかえしたあげく、日本に引きつづき在留し、在日同胞のため努力する決心をした。同胞たちの将来のためにつくすのが、“時”が私に与えた使命であると思った」(同前)

 こうして権逸は在日朝鮮人たちの組織化を始めていくのである。


■生粋の共産主義者


 この権逸とは対照的に、玉音放送に快哉を叫び、戦前から志してきた革命の好機が到来したことに意を強くしたのは、朝鮮人共産主義者の金斗鎔である。

 金斗鎔は東京帝国大学文学部を中退、日本プロレタリア芸術連盟に所属して「戦旗」「プロレタリア芸術」等で執筆活動を行い、朝鮮プロレタリア芸術同盟東京支部の設立とともに、機関誌「芸術運動」「無産者」を編集した。生粋の共産主義者である。

 1929年から労働運動に関わり、「在日本朝鮮労働運動は如何に展開すべきか?」(同年11月)を執筆、工場内の日本人と朝鮮人労働者が連帯し闘争をするべきである、と訴えた。

「私が第一回目に入獄したのは1930年である。ところがその当時私の知っていた朝鮮に対する知識とゆうものは、実に微々たるものだった。それはせいぜい公式的な一般原則的なものにすぎず具体的なものとなると何も知っていなかった。だから予審廷で朝鮮総督政治について語ってくれと、判事からいわれても、それを具体的にゆうことができないような有様だった。そこで私はこれではいかんと思った。そして自分の無学を恥じた。その当時においては私ばかりでなくすべてのわれわれの仲間はみなこうだった。そして私は1934年出獄すると同時に早速朝鮮に関する勉強をやり始めた」(金斗鎔『朝鮮近代社会史話』郷土書房)


■次々誕生した朝鮮人団体


 金はその後、産別労働組合の設立を目指すなかで何度も投獄される。終戦時は表面上、転向してはいたものの、終始革命家の志を変えることはなかった。

 そして日本の敗戦と共に「朝鮮の大日本帝国からの完全な独立」と「人民共和国建設」の革命を成し遂げるために立ち上がる。

 金は1946年2月1日に創刊した日本共産党の中央機関誌「前衛」で、終戦時の「日本における朝鮮人問題」についてつづっている。

「日本における朝鮮人問題は一つの民族問題である。それは朝鮮内に於ける朝鮮民族の政治的動向と結びつき、他方に於ては日本内に於ける革命状態と結びついてゐる。過去朝鮮民族が日本帝国主義の支配下におかれてゐた時代には、それは反帝国主義的闘争、民族解放闘争の問題であつた。しかし現在に於ては、それは朝鮮の完全な独立、人民共和国建設、の問題となつてゐる」(金斗鎔「日本における朝鮮人問題」「前衛」1946年2月号)

 そこで金は同胞を速やかに結集させ、まず「政治犯釈放運動促進連盟」を結成、続けて次々に朝鮮人団体を作った。

「東京では、九月十日に金斗鎔、朴哲在、金文朝らを中心に『在日朝鮮科学技術団』が組織された。また同一六日には神田のYMCAで金斗鎔、南浩栄、朱基栄らの呼びかけによる『在日朝鮮青年学徒有志大会』がもたれ、約四百名が参加して朝鮮解放と独立の気勢をあげた」(坪井・同前)

 朝鮮人は政治と権力を好む。派閥争いも絶えず、戦前戦中を通じ、国内には留学生と青年団体、宗教団体、労働団体、思想団体などあらゆる大義をもつ組織や団体が群雄割拠していた。同様にこの終戦時にも、中小さまざまな組織が誕生していったのだ。


■「在日本朝鮮人連盟」へ


 権逸はこうした混乱を収束させるため、他の中小の団体や組織と手を取り、朝鮮人団体を一つに集結させようと動き始めた。金斗鎔をはじめとする共産主義者とも膝を交じえ、協議を始動させたのである。

 ミズーリ艦上での降伏文書の調印式から、1週間と1日が経った1945年9月10日、東京代々木の青莪寮で「在京朝鮮人全国協議会」が開催された。ここには関東7団体の関係者、関西から60名の在日主要人物が集まった。民族派の権逸や共産主義者の金斗鎔はもちろん、相愛会、協和会(興生会)、一心会など、これまで大日本帝国政府に協力してきた愛国団体の幹部も多数出席した。

 ここで「在日本朝鮮人連盟結成中央準備委員会」が発足する。日本国民が敗北感に打ちひしがれ茫然自失していたその時、解放された民族として高揚していた朝鮮人は、「在日本朝鮮人連盟」という一大組織の結成に向けて第一歩を踏み出したのである。

 会の終わりには中央委員が選出された。『権逸回顧録』によれば、ここで決まった役員は以下の通りである。

準備委員長 趙得聖

副委員長 権赫周(権逸)

     金正洪

総務部長 金麗煥

  次長 朴斉燮

地方部長 康慶玉

  次長 金薫

外部部長(兼)権赫周

  次長 金鎮

情報部長 李能相

  次長 申鴻シク

財務部長(兼)金正洪

  次長 卞栄宇

厚生部長 金光男

  次長 宋明九

文化部長 南浩栄

  次長 柳茂


■大勢を占めた親日派


 委員長の趙得聖(白川一宇)はハーバード大学卒の民族派、副委員長の権赫周(権逸)は親日派、金正洪(清水武雄)は共産主義者である。金は財務部長を兼任することで組織の資金を掌握した。

 大日本帝国政府を支えた愛国団体の指導者たちと朝鮮人共産主義者が渾然一体となって入っているが、親日派が大勢を占めた。そしてこの時点では「皆で朝鮮半島に帰ろう!」という目的のもと大同団結していた。朝鮮人の生命と財産を保護し、無事、半島に帰還させることが最優先の課題だったのである。また日本に残ったとしても、日本で育った在日2世が少しでも朝鮮語を話すことができるようにするなど、日本での民族教育も重視された。

 そして準備委員会事務局は新宿角筈の朝鮮奨学会のビルに置くことが決まった。

 呉圭祥の『ドキュメント在日本朝鮮人連盟』(岩波書店)には、

「五回に及ぶ中央準備常務委員会、九月一一日、九月二五日の二回の中央準備委員会を経て、地方組織と緊急な問題をある程度整理した後、九月二八日、一〇月一四日の全国大会準備委員会で、宣言、綱領、規約などを作成して大会を迎える準備をした」

 とある。


■「革命組織」


 表面上は着々と進んだように見えるが、この間に権逸ら民族派と金斗鎔ら共産主義者たちとの対立は始まっていた。

 金斗鎔は、日本共産党の中央機関誌である「前衛」創刊号(1946年2月)に次のように記している。

「少なくとも八月十五日直後に於て大同団結のスローガンの下に出発した当時に於ては、朝連の内部に於ても、その中央幹部の中にも、協和会・興生会・一心会等々の民族反逆者や戦争犯罪人等がその多数を占め、その比重も大きく、従つて日本の政府に対する大衆的な要求も、単に交渉の域を脱することができなかつた。彼等は朝鮮を相変らず過去の興生会のごとき、反動的日本政府の御用機関たらしめようと策謀してゐた」

 共産主義者らは、この組織を自らの支配下に置いて「革命組織」とするべく動き出した。

(敬称略)

近現代史検証研究会 東郷一馬

「週刊新潮」2022年3月24日号 掲載

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