「田中角栄」が教える「正しい札束の配り方」 側近議員は「俺が運んだ金で一番多かったのは1億円」

「田中角栄」が教える「正しい札束の配り方」 側近議員は「俺が運んだ金で一番多かったのは1億円」

清濁併せのむ人柄で、国民的人気を誇った

 1972年5月、木曜クラブ(田中派)を旗揚げした田中角栄は、翌月に「日本列島改造論」を発表。まもなく、自民党総裁の座を射止め、同年7月6日に第1次田中内閣が成立するや、列島に空前の「角栄ブーム」が巻き起こった。それから50年。いまだに“待望論”が持ち上がる宰相は、角栄をおいて他にいないだろう。その一方で、圧倒的な資金力を武器に総理の座を手に入れた角栄は「金権政治の権化」とも呼ばれた。たしかに、カネの話を抜きに角栄を語ることはできないが、そこに知られざる流儀があったのも事実。「今太閤」ともてはやされた男に学ぶ「正しい札束の配り方」とは――。(本記事は、「週刊新潮 別冊 創刊60周年記念/2016年8月23日号」に掲載された内容を転載したものです)


■「陣中見舞い」に5千万円の紙袋二つ


「俺が実際に運んだ金で、額が一番多かったのは1億円。田中内閣を作る時のことで、いまから40年以上も前になる。オヤジに言われて5千万円を入れた紙袋を二つ、ある派閥の領袖の事務所に“陣中見舞い”っていう名目で、両手にぶら下げて持ってった。あれは結構、重たいもんだよ」

 懐かしそうなまなしで生々しい過去を口にするのは、かつて“田中派七奉行”の一人に数えられた渡部恒三元衆議院副議長(84)だ。平成24年(2012年)11月に政界引退を表明し、現在は民進党顧問を務めている。

「それで、相手の事務所に着いたら“田中からです”と言って渡したんだ。まあ、向こうも心得たもので“はい、どうも”で終わり。こういう時は、お互いにムダ話はしないもんなんだ」

 昭和47年(1972年)7月5日、田中角栄は総裁選挙で前首相の佐藤栄作が支持を表明した福田赳夫を破り、第6代の自由民主党総裁に就任した。さらに翌6日には国会の首班指名で戦後11人目の総理大臣に選出され、遂に国権の頂点に上り詰めた。渡部氏が“密使”を務めたのは、ちょうどこの直前の時期である。

 死から20年以上を経たいまも、世間は何度目かの角栄ブームに沸いている。その田中角栄を語る時に必ず出てくるフレーズが「金権」だ。が、「今太閤」と親しまれ、あるいは「闇将軍」と唾棄された角栄には、現代に生きる我々が範とすべき点が少なくない。それは、かつて世間の強い批判にさらされた、札束の配り方においても例外ではない。
 
さて、現役時代に角栄の名代として多くの議員に札束を届けた渡部氏が初めて角栄に会ったのは、昭和44年(69年)の暮れだった。


■「こんなもの、あって邪魔になるもんじゃない」


「初めて総選挙に出馬した時、幹事長だったオヤジは俺に公認をくれなかった。だから、無所属で当選はしたものの、俺も後援会も“田中憎し”で凝り固まっていたんだ。ところが会津若松から上京して上野駅で降りたら、金丸(信)副幹事長と竹下(登)国対副委員長が改札の外で待っていてね。竹下は早大雄弁会の先輩だし、金丸はその盟友で党の幹部。その二人が改札を出たところで“幹事長が会いたいって言ってるから案内するよ”って言うわけよ」

 黒塗りの車に乗せられ、着いた先は永田町の自民党本部だった。

「オヤジは“おめでとう、おめでとう”って言いながら、公認証書を“受け取ってくれ”って取り出した。でも、俺はムスッとしたまま“幹事長さん、これを選挙の前に頂いていたら、ここで土下座して感謝したでしょう。でも、選挙は終わりました。もう、こんなものは紙切れです”って言って、その場でバリッと破いちゃった」

 普通なら、ケンカになってもおかしくない場面だが、

「オヤジは顔色一つ変えないで、“お前ね、親心というのを知らないんだな。お前を当選させたいために公認しなかった、この俺の気持ちが分かるか?”って言うんだよ」

 実は、この時の渡部氏の主な得票は、独自候補がいなかった、民社党と公明党の支持者からのものだった。

「だから、俺が自民党の公認を受けていたらその票は入らず落選していたというわけ。そこまで調べているのかと感心していたら、オヤジはおもむろに“これは公認料だ”と言って金庫から茶色い包みを出してきた。そのままで差し出されていたら、俺は絶対に受け取らなかった。ところがオヤジは包みをパーッと破いて100万円の束を三つ取り出して、“こんなもの、あって邪魔になるもんじゃない”って、俺の上着のポケットに入れちゃったんだ」

 それは渡部氏に断る隙を与えない、絶妙なタイミングだった。

「俺の失礼な態度に腹を立てるでもなく、少しも偉ぶらない。自然と懐に入ってくる人間味に俺は一遍で惚れちゃった。あれこそ“田中角栄”の真骨頂だった」


■札束の厚さで評価を伝える


 戦後の高度成長期と軌を一にした、43年にもわたった議員生活。その間、角栄がばらまいた札束の総額は、数百億円とも1千億円ともいわれる。が、彼の配り方には流儀とも法則ともいうべき共通項が見て取れる。その一つが初対面で渡部氏を虜にしたような独特の気配りだ。

 角栄が2度の幹事長を務めた時期(昭和40〜41年、昭和43〜46年・ともに佐藤栄作内閣)を含め、30年以上にわたって自民党幹事長室長を務めた、奥島貞雄氏(80)が振り返る。

「夏のちょうどいまの時期、多くの議員が外遊に出ますね。角さんは7月半ばを過ぎると、外遊を予定している議員を個別に幹事長室に呼んで、餞別を配るのを恒例にしていました」

 角栄はそれらの議員と会う前に、誰がどこに行くのか、その議員が会期中にどんな働きをしたのか、つぶさに把握していたという。

「あらかじめ、事務方に調べさせておくんです。私も知り合いの新聞記者や党の国対事務局に、角さんから言われた議員の委員会への出席状況や法案審議における態度などを細かに聞いていました。というのも、当時は委員会をサボりまくる議員や適当な質問でお茶を濁す議員は少なくなかった。角さんはそれを見越して、幹事長室に呼ぶ前に独自の論功行賞の判断を下していたのです」

 その拠り所となるのが、事務方の独自調査をまとめた詳細なメモだった。

「私たちとの打ち合わせが一段落すると“よっしゃ、電話せい”と、例のダミ声で指示が来ます。で、事務員が議員会館に電話をすると、ほどなく議員がやって来る。面談はものの5分から10分程度ですが、話す内容は旅先のことや家族の近況など雑談ばかり。議員活動の是非には一切触れません。それを適当なところで切り上げると、角さんは現金を入れた茶封筒を渡すのです。金額は相手によってまちまちでしたが、大抵は100万円。少ない場合は50万円の時もありました」

 毎年、角栄が呼び出す議員は20人から30人前後。彼らが何かの拍子に角栄から渡された金額の多寡を比べることがあれば、そこで自分の評価を知ることになる。角栄は直接、相手を褒めたり叱ったりすることはせず、十分な働きには分厚い札束で報い、そうでない議員には薄い札束で発奮を促した。さり気なく自らの評価を伝えていたのである。


■テーブルでトントン


 さらに奥島氏は、日米安保条約の自動更新の是非が争点となった昭和44年(69年)の総選挙の際、角栄の金銭哲学の一端を目の当たりにしたと述懐する。

「公認候補に配る300万円の公認料がありますが、それまでの幹事長は、自分が属する派閥の議員には多めに渡す一方で、他派閥の議員の分を減らすのが普通でした。ところが角さんは一切、それをやらない。反主流派でも、まったく同じ額を配るんです。そのやり方は本当に公平でした」

 厳しい選挙戦を戦うのは、どの議員も同じこと。ここにも角栄一流の配慮がうかがえる。また、公認料を“表の金”とするなら、当然“裏の金”もあった。奥島氏は、角栄から直々にその扱い方を伝授されていた。

「200万円から300万円の札束を包む際には、角さん流の工夫がありました。模造紙などで丁寧に包み、最後にセロテープで留めて完成ですが、角さんは仕上げとばかりに8カ所の尖った角をテーブルでトントンと叩いて潰すんです。理由を尋ねると、“こうするとスーツのポケットにしまう時に角が引っ掛からず出し入れしやすいんだ”と得意げに話してくれました」

 こうして作られた角栄手製の“実弾”は、主に腹心の二階堂進筆頭副幹事長が名代となって、人知れず各選挙区の候補者の手に渡っていった。


■「受け取ってくれてありがとう」


 また、角栄は自身はもとより、使いの者が札束を渡す時の言葉遣いや物腰にも徹底的に気を使っていた。

 先の渡部氏によれば、

「オヤジは“間違ってもくれてやるというような態度は見せるな。金というのは受け取る方が一番辛いし、切ないんだ”と繰り返し言っていた。だから俺はいつも“オヤジの金を受け取ってくれてありがとう”っていう気持ちで渡していたよ」

 一方、実際に角栄から金を受け取った経験を持つ福田派の元代議士秘書は、いまも当時のやりとりが忘れられないと振り返る。

「角さんがロッキード事件で逮捕されてから4度目となる、昭和58年12月の総選挙を控えて、私は福田派の事務所に選挙資金を受け取りに行きました。すると、電話中だった福田(赳夫)先生の秘書は私を一瞥するだけで電話を切ろうともせず、“ほれ、持ってけ”と言わんばかりに片手で茶封筒を突き出してきた。封筒には100万円が入っていましたが、あの時は“ふざけるなこの野郎!”と本当に腹が立ちました」

 対照的だったのが、角栄事務所の対応である。

「人づてに角さんに資金パーティーへの出席をお願いすると、すぐに秘書があいさつに見えました。“この度はおめでとうございます”と頭を下げ、50万円が入った熨斗(のし)袋まで持参してくれました。その上、“うちのオヤジは何を喋ればいいでしょうか。先生はどんなことを話してほしいとお考えでしょうか”と、微に入り細にわたってこちらの要望を聞いてくれたのです」

 その後、詳細なメモを片手に事務所を辞した角栄の秘書を見送った途端、複雑な感情に襲われたという。

「福田先生は派閥の長ではありますが、金の渡し方はまるで施しでもするようでした。ところが角さんは、わざわざ秘書を出向かせた上、スピーチの内容まで気にかけてくれました。頂いた額こそ福田先生の半分でしたが、ありがたみは何十倍にも感じましたね」


■100万円が必要なら300万円渡す


 単に金を渡すだけでなく、相手に親身に寄り添うことで、角栄は何倍もの費用対効果を得ていたことになる。しかも、角栄はこうした配り方を党派や派閥に関係なく、あらゆる人々に行っていた。改めて渡部氏が言う。

「オヤジのもとには、子飼いの新聞記者や田中派の秘書軍団などを通じて、与野党議員の女性スキャンダルや金銭トラブルなどの情報が入って来た。だから、“あの議員が愛人に脅されている”なんて話を聞くと、オヤジは向こうから助けを求めてくる前に渡しに行く。党派も派閥も関係ない。あるのは“困っているなら力になるよ”という気持ちだけ。国会でオヤジを金権だの何だのと批判していた野党の大物のところに持って行ったこともある。解決に100万円が必要なら300万円、300万円が必要なら500万円という具合に、いつも多めに渡すのもオヤジの流儀だったな」

 分け隔てをしないのは、幹事長時代に配った選挙の際の裏金も同様だった。

「あの当時、角さんはまだ佐藤派の所属でしたが、ライバルの福田派や三木派、中曽根派が推した候補者にも渡していました。苦しい選挙戦の最中だけに、こうした“実弾”はどの議員も助かったはず。でも、こういう気遣いができた方は、私が仕えた22人の幹事長の中で、後にも先にも角さんだけでしたね」(奥島氏)

 派閥や政党にこだわらず、札束を配りまくった角栄には、どんな狙いがあったのか。30年以上前に角栄の番記者を務めた新潟日報社の小田敏三社長(66)は、次のようにその意図を推し測る。

「角さんは常々“味方は2人でいい。広大なる中間地帯を作れ。敵は1人でも少なくしろ”と言っていました。その意味は“人は何か事を為そうとする時ほど、味方を増やそうとする。ところが、そういう奴に限って敵も増やす”というものです。日頃から、少しでも自分に好意を持つ中間層を増やしておくことが大事だと言いたかったのでしょう。与野党を問わず金を介した“お付き合い”をしたのは、そういう意識があったからではないでしょうか」

 角栄に限らず、永田町で最高権力者の座を目指す議員にとっては、同じ党の同僚とて、決して「味方」とは言い切れない。ましてや、角栄が生きた当時は「三角大福中」と、角栄率いる田中派をはじめ、三木派、大平派、福田派、中曽根派などの各派閥が死闘を繰り広げた時代である。


■「角さんの金は負担にならない」


 昭和51年(76年)7月にロッキード事件で角栄が逮捕・起訴された後も、一貫して角栄の無罪を主張した石井一元自治相(81)は、こうして角栄が醸成した“中間地帯”の賜物を目の当たりにしたことがある。

「オヤジの逮捕後に行われた昭和54年の総選挙の後、衆議院の議院運営委員だった私は本会議場のオヤジの席を替えようと思い立った。すでに離党していた関係で、オヤジの席は議長席から見て左手の最前列に近い場所。本来、そこは無所属の陣笠議員らが座る場所だったから、そんなところに総理経験者のオヤジを座らせておくのは余りに忍びなかったんだ」

 当時の議運のメンバーは11人。亀岡高夫委員長(故人)以下、6人が自民党で社会党が2人。残りは公明党、民社党、共産党の各1人だった。

「亀岡さんは“そんな難しいことができるのか?”と懐疑的でした。ところが、野党の理事たちは私の意図をすんなり理解してくれた。誰一人として“党本部に持ち帰る”なんて面倒なことは言い出さない。いま思えば、野党の理事たちもオヤジと何らかの付き合いがあったんだろうな」

 彼らと角栄にどんな関係があったのか、もはやその有無も含めて知る術もないが、政治評論家の小林吉弥氏は次のように指摘する。

「政界では“角さんの金は負担にならない”と評判でした。それは、とにかく角さんは口が堅く、札束を渡した相手については一度も口外することがなかったから。金のやりとりは当事者双方が黙っている限り、外に漏れることはありません。国会議員は殊更に評判や外聞を気にする人気商売。角さんは、そういう議員の心理を熟知していたのです」

 秘密の共有は、時に人間関係を強固なものにする。札束を配る機会とは無縁の我ら庶民だが、その行為を「田中角栄」というフィルターを通してのぞいてみれば、自ずと学ぶべき点が見えてくるのである。

デイリー新潮編集部

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