「桜を見る会」はなぜ今まで見過ごされてきたのか

「桜を見る会」はなぜ今まで見過ごされてきたのか

「桜を見る会」は、新聞、テレビは軒並み風物詩として扱ってきたわけだが…(※写真は2018年の桜を見る会)

 政権を揺るがす疑惑なのか、いつもの野党の政局用のツールなのか、評価は様々にせよ、次々と国会で与党が追及される「問題」が増えている。11月前半あたりまでのメインは、大学共通テストの民間試験問題で、中旬からは「桜を見る会」問題も加わった。

 基本的に与党が攻撃される問題は、新聞やテレビにとっても格好のネタなので、このところ紙面、番組でもこうした問題に絡めて政府の姿勢を批判するトーンが強まっているようだ。

 大手紙の中ではもっとも政権に厳しいとされる朝日新聞では、桜を見る会について記事のほか、社説でも「首相の私物化は許されない」と主張している。

 制度の不備、政権の腐敗などを追及するのは、ジャーナリズムの大切な役割なのは言うまでもない。その点で、高い問題意識や使命感で大手メディアは発信しているのかもしれない。

 しかしここで素朴な疑問を持つ方もいることだろう。

「騒ぎになるまで、担当記者は何してたの?」

 大学共通テストは文部科学省で決めた制度であるし、桜を見る会は長年、内閣府や官邸が実施してきたものである。それぞれには大手メディアは記者クラブを有しており、番記者が存在している。

 タダでそれぞれの官公庁などに間借りして、光熱費すら払わない。そんな記者クラブの存在を問題視する声は根強くあったが、それに対して大手メディア側が常に言っていたのは「これは権力の監視に必要なシステムなのだ」という論理だった。

 ところが、たとえば英語の民間試験が決まった時にも、ほとんどスルーの状態。多少の批判記事は出したものの、平和安全法制の頃の「大反対キャンペーン」とは比較にならないほど好意的だった。

 朝日新聞では「教えて! 大学入試改革」と題した解説記事を2017年に掲載しているが、そのトーンは極めて冷静。淡々と、かつ親切に民間試験の費用その他まで伝えている。「こうなったのだから対応しましょう」という趣旨であって、「欠陥制度だ」というトーンは微塵も見られない。さすがは受験に強いことを日頃から売りにしているだけのことはある。

「桜を見る会」にいたっては、新聞、テレビは軒並み風物詩として扱ってきたわけで、そこに批判的な視点など一切なかったのはご存じの通り。

 なぜ担当記者たちは、事前に問題点を見出せないのか。

 フリージャーナリストの烏賀陽弘道氏は、著書『報道の脳死』で、日本の既存メディアには「クエスチョニング」が欠如している、と指摘している(以下、引用は同書より)。

「欧米型のジャーナリズムでは『クエスチョニング』は記者の仕事の根幹をなす、もっとも重要な作業である。が、それに該当する概念と作業が、日本の既存メディアの文化にはない。よって日本語にもならない。これは日本と西欧型報道の最大の文化差でもある」

 クエスチョニングとは、単に質問をする、ということではなく、報道の文脈では「表面からは見えない真実あるいは本質を探ること」なのだという。

「ところが、こうしたクエスチョニングが、ふだんの日本の新聞やテレビの記事や番組に表れてくることは、ほとんどない。(中略)

 クエスチョニングの欠けた記事がどう見えるか。読者にすれば『発表そのまま』『発表タレ流し』という印象になる。また『それがどうした』『それでどうした』と言いたくなる」

 この手の報道は枚挙にいとまがない。あとになって「ムダなハコモノ」と批判されるような施設であっても、建設が決定した時には新聞等で批判されることは少ない。

 多くの場合、事前の「監視」はできていない。

 問題だ、と騒ぐのはヘタをすると週刊誌や共産党あたりが指摘してからだ。

 すでに一部で指摘が出ているように、税金のムダ使いが問題ならば、国会の空転そのものもまたムダの代表だろう。

 そして、「桜を見る会」が本当に問題なのだとすれば、それを見逃してきたことへの反省も必要なのではないだろうか。少なくとも自社の関係者がどのくらい出席していたか、その出席者一覧の情報公開から始めるのも手かもしれない。

デイリー新潮編集部

2019年11月20日 掲載

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