追悼「白川勝彦」元自治大臣 創価学会と最後まで闘い、自公連立政権を認めなかった男

追悼「白川勝彦」元自治大臣 創価学会と最後まで闘い、自公連立政権を認めなかった男

白川勝彦氏

 自治大臣をつとめた白川勝彦氏が11月18日、腎不全のため亡くなった。享年74。葬儀は22日、近親者によって密葬で執り行われた。同氏は、自公連立政権を容認せず、最後まで創価学会批判を貫いた闘士だった。

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 白川氏は新潟県十日町市出身。実家は祖父の代から続く絹織物業者だった。1969年に東京大学法学部を卒業。大学在任中に司法試験に合格し、弁護士に。大学時代は、日本共産党の下部団体である日本民主青年同盟の活動家でもあった。

 1979年の衆院選で自民党から出馬し、初当選を果たす。加藤紘一氏の宏池会で川崎二郎氏、谷垣禎一氏らと一緒に、加藤氏の側近として活動した。90年の衆院選で落選、93年の衆院選で返り咲いたが、自民党は1955年以来、初めて下野し、細川連立政権が発足した。

「自民党はものすごいショックを受けたわけですが、この時初めて、公明党の支持母体である創価学会の存在に脅威を感じるようになったのです。学会票で細川政権ができたということで、学会批判をする議員がいました。中でも、94年に亀井静香氏と一緒に『憲法20条を考える会』を発足させた白川氏は、政教分離問題という視点で激しい学会批判を行いました。宗教団体が政治に介入することは大きな問題であると追及したのです。白川氏の指摘は、創価学会の急所をついた形でした」

 と振り返るのは、ジャーナリストの乙骨正生氏である。憲法20条で「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」と規定している。

 94年6月、自民党は社会党、さきがけと連立し、政権を奪還した。その年の12月には、小沢一郎氏や海部俊樹氏らが中心となって新進党を結党。同党は95年の参院選で、創価学会の全面支援を得て、比例代表区の得票数で1位になるなど、大躍進を果たした。そして96年の衆院選では、自民党と新進党が全面対決する中、白川氏は党総務局長(現・選対委員長)として自民党勝利に貢献し、6度目の当選を果たした。そして、自治大臣兼国家公安委員会委員長として初入閣した。

「96年の衆院選では、自民党は苦戦を強いられました。自民党内で公明党を敵に回すのは得策ではないという雰囲気が漂ったのです。選挙のたびに、学会票と闘わなければならないという不安が強まり、98年に橋本龍太郎総理から政権を引き継いだ小渕恵三氏らが中心となって公明党との関係修復を唱えました。そして99年10月、公明党が小渕政権に加わるという形で自公連立がスタートしたのです。これに猛反対したのが白川氏でした。宗教が政治に介入する、つまり学会票によって議員の当選が左右されることは、国民が議員を選ぶ議会制民主主義の根幹にかかわる大問題だと批判したのです」(同)


■徹底的に潰せ


 真っ向から創価学会批判を繰り広げた白川氏。2000年6月の衆院選では、公明党が白川氏を推薦せず、民主党の筒井信隆氏に敗れ落選した。

 白川氏は、雑誌『フォーラム21』(2007年2月15日号)で、落選した時のことを、次のように書いている。

〈私は新潟6区から自民党公認候補として立候補した。私は自民党が公明党と連立した後も、党内有志と共に「政教分離を貫く会」を設立するなどしてこの連立に反対してきた。だから公明党が私を推薦しないのは構わないし、私も創価学会や公明党の推薦を受けようとは思わなかった。創価学会・公明党は、新潟6区で民主党候補を推薦し、熱心に応援した。(中略)総選挙というのは、与党対野党の政権を賭けた戦いなのである。党の執行部としては、自民党の候補である私を勝たせなければならないのである。連立を組んでいる公明党に対して少なくとも野党候補を推薦・応援することくらいは止めてもらうようにするのが執行部の最低限の仕事である。しかし、当時の自民党執行部は、公明党と一緒になって私を落選させることに汲々としていた。〉

 01年、白川氏は自民党を離党。自ら代表を務める「新党・自由と希望」を立ち上げ、同年7月の参院選に出馬するも、当選は果たせなかった。

 05年5月、白川氏は郷里である新潟県十日町市長選に出馬した際も、創価学会の壁が立ちはだかったという。

「創価学会は、芸能部から久本雅美、岸本加世子、山本リンダを投入して、白川氏の対立候補の応援をしていました。学会を批判する者は、徹底的に潰せというわけですね」(乙骨氏)

 白川氏も『フォーラム21』(同前)で、こう書いている。

〈創価学会・公明党がこの市長選にタレントや国会議員を投入し、白川にだけ入れるなと活動したと聞いた。〉

 結局、市長選では5人立候補した中で、白川氏は4位という散々な結果となった。

 08年から、白川氏は東京・新橋で法律事務所をオープン。弁護士として、多重債務問題を重点的に扱った。

「白川さんと一緒に食事した時には、必ず学会批判、自公連立批判を饒舌に語っていました。論文を書く時は、政治評論家の藤原弘達氏の著書『創価学会を斬る』をよく引用していました。公明党が自民党と連立政権を組んだ時、ナチス・ヒトラーが出た時によく似ている。自民党という右翼ファシズム的要素と、公明党の宗教的狂信的な要素で癒着関係ができ、それがファッショ的傾向に持っていく起爆剤になるという見方です」(同)

 乙骨氏が白川氏と最後に会ったのは、2016年の暮れだった。

「新橋の事務所で原稿の依頼でお会いしたのですが、自公連立が延々と続くことに対して、『学会はしぶとい。自民党の中で安倍首相を批判する議員はいないのか。根性がないな』と。彼は、一日に何箱もタバコを吸うヘビースモーカーでしたが、翌17年の春に心臓病で倒れています。半年ほど療養生活を送ったようですね」

 白川氏のWEBサイトにある「永田町徒然草」では、今年の元旦にこう綴っていた。

〈実に、1年2ケ月ぶりの永田町徒然草となります。この間、心筋梗塞がいろんな形であらわれ、永田町徒然草のupdateができませんでした。とりわけ、昨夏の熱さ(ママ)には参りました。身心共に、不都合となりました。現状は、この不都合と闘いながらリハビリに励んでおります。世界的に“狂”が主流となり、心が痛まない筈がありません。これに一矢を報いるべく、身心を整え、発信してゆきたいと思っています。〉

 これが最後の「永田町徒然草」だったが、自公連立政権が発足して20年。白川氏はこの状況を泉下でどう考えているのだろうか。

週刊新潮WEB取材班

2019年12月2日 掲載

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