映画「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」 知られざるポイントを専門家が解説

映画「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」 知られざるポイントを専門家が解説

三島由紀夫(Shirou Aoyama/1956年/Wikimedia Commons)

 作家・三島由紀夫と東大全共闘(実力闘争を掲げた学生運動組織)は1969年5月13日、東大駒場キャンパスで2時間半の討論会を行った。全共闘は人寄せのポスターに“近代ゴリラ”三島の戯画を描いた。会場の大教室は1000人余りの学生で埋まり熱気に包まれた。これをいくつかの週刊誌がセンセーショナルに報じ、世間の耳目を集めた。

 三島は事前に討論会の書籍化を新潮社に持ちかけていた。編集担当者は、出始めたカセットではなく重いオープンリールテープの録音機を携え、社のカメラマンも三島に同行して会場に乗り込んだ。その記録は、翌月『討論 三島由紀夫vs.東大全共闘〈美と共同体と東大闘争〉』として緊急出版された。

 一方学生たちは自分たちを取材しその主張をTV番組で取りあげたTBSに声をかけていて、討論の映像はニュースで流された。TBSが撮った一部はネットの動画サイトで視ることが出来るが、今般それを全面的に使った映画『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』が制作され、衆目に触れることになった。


■映画に欠落しているもの


 映画は3月20日に全国で上映が始まったが、私は配給会社と日本外国特派員協会での試写会、そして映画館でと3回観た。動画とスチルをふんだんに用いていて、活字では得られない臨場感を享受することができた。壇上でやり取りする三島と学生たちの挙措と息づかい、会場に詰めかけた学生たちの真剣な眼差しも鮮明に伝わってきた。

 しかし物足りないと感じたことが一つあった。TBSのスタッフ、新潮社のカメラマンは“討論の場にいた人々”として登場するのだが、そこに書籍化の担当者(存命)がいないのだ。これまで50年間は、この担当者が携わり活字化されたものが討論にアクセスできる唯一のものだった。この人物に映画が全く触れていないことが不可解だった。私は豊島圭介監督に試写会で質問した。すると「カメラマンは、それが誰なのか思い出せなかったんです」との返答だった。監督はかなりの資料に目を通したそうだが、この者の自叙伝にある出版化に纏わる貴重なエピソードを見逃したようだ。


■体制側の人


 さて肝心の討論の中身に入る。三島が司会役の学生に促されて口火を切った。

〈先日、4月28日に(沖縄反戦デーのデモを)私は方々見て回ったのでありますが、あの日の午前中、諸君の、所謂体制側の人とちょっと会っておりました。それほど偉い人じゃないのですが、体制側の優秀なる人、この人が言うには「どうも困ったもんです。あんなキチガイみたいな連中が騒いで」と。〉

 この“所謂体制側の人”とは、当時警視庁警備課長だった佐々淳行である。私が三島との交流を計5回延べ10時間余に亘って佐々に聴き取り取材した中で、それは自分のことだと認めたのだ。佐々はこの討論会の4カ月前に東大安田講堂攻防戦で機動隊を指揮し、講堂を占拠していた全共闘他の学生たちを鎮圧・排除していた。三島は民兵組織「楯の会」を自力で立ち上げ、過激学生の暴動に機動隊が敗れて自衛隊が治安出動する、そうなった時に出撃しようとしていた。そのために自衛隊だけでなく警察にもアプローチしていたが、応対したのは佐々だけだった。三島と「楯の会」に親和的な自衛隊と違って、警察はその動きを警戒していたからだ。戦前佐々の姉は三島の妹と聖心女子学院の同級で、戦後暫く三島と交際していた。その縁で佐々は当時から三島と知り合っていた。晩年の三島は佐々に急接近し、機微に触れる事柄を持ちかけていた。佐々はその三島との濃密なやり取りをずっと秘していた。私が佐々から聞き出した詳細は小著『死の貌[かたち]』に記した。


■天皇と一言言ってくれれば


 討論の注目すべき論点はいくつもあるが、“天皇”を巡るやり取りが最もエキサイティングだ。三島は自分が“天皇”という概念で捉えているものを古事記から語り起こし、噛んで含めるように学生たちに説いた。そして次の極めつけの言を吐いたのだ。

〈天皇を天皇と諸君が一言、言ってくれれば、私は喜んで諸君と手をつなぐのに、言ってくれないからいつまでたっても殺す殺すと言ってるだけのことさ。それだけさ。〉

 三島は学生たちと意思疎通が取れていることを自覚し、次のように言った。

〈いま天皇ということを口にしただけで共闘すると言った。これは言霊というものの働きだと思うのですね。それでなければ、天皇ということを口にすることも穢らわしかったような人が、この2時間半のシンポジウムの間に、あれだけ大勢の人間がたとえ悪口にしろ、天皇なんて口から言ったはずがない。言葉は言葉を呼んで、翼をもってこの部屋の中を飛び廻ったんです。〉


■三島と全共闘の共通の敵


 全共闘は左翼学生組織と思われていたが、実は60年安保の流れを汲む反米愛国の活動家たちだ。三島は米国追随の与党政権を厳しく批判していた。そして自分の敵は共産主義だ、とかねて表明し、この討論の場でも明言した。東大全共闘の最大の敵は駒場キャンパスを牛耳る民(日本共産党の下部組織・日本民主青年同盟)だった。三島は右翼、左翼という違いではない、自分と相通ずるものがあると看破して全共闘の誘いに応じたのだろう。

 討論会の時に最も懸念されたのは駒場民による乱入などの妨害行為だった。しかし討論会に関与した学生たちが党派に参加しないその周辺メンバーだったせいか、民はキャンパスの案内ビラをすべて剥がす以上の実力行使には出なかった。そのせいで三島は道を聞きながら会場にたどりついた。

 三島と学生たちの議論はけっして噛み合っていない。学生たちがへんてこふにゃふにゃな発言を捲し立てたりもしたからだ。しかし三島はそれを無視せず受け止めた。学生たちの発言の揚げ足取りや発言の矛盾を突くことをせず、どんなクセ球が投げられても冷静に懇切に対応した。映画を観た多くの者の既成の三島観はかなり変ったことだろう。

 映像から私に最も伝わってきたのは、三島と学生たち両者が言葉によって通じ合っていたことだ。言葉の力を学生たちも信じていたから成りたった稀有な討論会だったのだ。


■天皇への屈折した感情


 三島は天皇についての個人的な体験も打ち明けた。

〈こんなことを言うと、揚げ足をとられるから言いたくないのだけれども、ひとつ個人的な感想を聞いてください。というのはだね、僕らは戦争中に生れた人間でね、こういうところに陛下(昭和天皇)が坐っておられて、三時間全然微動もしない姿を見ている。とにかく三時間、木像のごとく全然微動もしない、卒業式で。そういう天皇から私は時計をもらった。そういう個人的な恩顧があるんだな。こんなことを言いたくないよ、俺は。(笑)言いたくないけれどね、人間の個人的な歴史の中でそんなことがあるんだ。そしてそれがどうしても俺の中で否定できないのだ。それはとてもご立派だった。そのときの天皇は。〉

 所謂「人間宣言」を発した昭和天皇を『英靈の聲』で徹底批判した三島のアンビバレントな感情がここに表出している。この件は先に引いた「天皇と諸君が一言言ってくれれば、私は喜んで諸君と手をつなぐのに」と共に討論会での重要な三島の発言である。


■天皇臨席の真偽


 先の大戦末期の多忙な最中に天皇は学習院の三島の卒業式に臨席(臨御)した、しかも3時間もいたのだろうか? 私が調べたところ事実は異なっていた。学習院の教師が卒業式について次のように日記に残していることを発見した。

〈昭和一九年九月九日(土)晴 今日は高等科卒業式。九時三十分御差遣[おさしつかい](久邇[くに])宮朝融[あさあきら]王殿下御着というので、職員、学生門内に堵して御着を待つ。 
・・・御下賜品拝受者平岡公威(文科)、何某、何某(理科)。十時三十分御差遣宮殿下を奉送申上げ、・・・(『清水文雄「戦中日記」 : 文学・教育・時局』笠間書院)〉

 “御差遣”とは天皇の名代である。清水文雄は平岡公威少年を“作家・三島由紀夫”として孵化させた恩師である。ようやく出た『昭和天皇実録』にも天皇が当日外出した記録はない。天皇は三島の卒業式に臨席(臨御)しなかったと考えて間違いない。三島が成績優等者として恩賜の時計を享けたのは天皇の代理の宮様からだったのだ。「そういう天皇から宮様を経て私は時計をもらった」と言っていれば、臨御があったとの誤解が生じることはなかっただろう。

 天皇が学習院の卒業式に臨御したのは、三島の在学中では、昭和9年、12年、16年の3回だった。それぞれ1時間程度じっと身じろぎせずにいたのだろう。その天皇の姿が三島少年の心に強く焼きつき、時間を合算して、「3時間」と言わせたのだろうか。


■封切り初日


 映画に登場し討論会、それから一年半後の「三島事件」を振り返っている「楯の会」の元隊員たちは70歳代に入っている。映画には半世紀前に彼らが三島と自衛隊の駐屯地を駆けている動画が挿入されていた。まだ元気そうだが当然彼らの容姿はその時から変化している。一方この映画の封切り初日に、日比谷のシネコンに現われた元隊員(三島から遺書を受け取った唯一の隊員)は杖を突き介添が付いていた。この討論会や三島由紀夫の死から彼らが経た星霜を感じた。

 私が観た回の200席のスペースは満席だった。戦後史における貴重な、観るたびに発見のあるドキュメンタリーなので、もう一度観たいと思っている。今般のコロナ・パンデミック騒動で、週末は上映館が閉鎖されるが平日は昼間の回のみやっている。見逃さないよう出かけるつもりだ。

西法太郎(作家)
昭和31(1956)年長野県生まれ。東大法学部卒。総合商社勤務先を経て文筆業に入る。著書は『三島由紀夫は一○代をどう生きたか』他。

週刊新潮WEB取材班編集

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