総理に仕えた「猛女」「ファースト・レディ」たちの鼻息…強い女たち列伝4

■ワンマン宰相・吉田茂の三女、「麻生和子詣で」


「ファースト・レディ」。言葉としては美しいが、現実のファースト・レディにうっとりする人は、そう多くはないだろう。そりゃあ、女は若いのに限る。しかし彼女たちだって、その昔は若く、一家の大黒柱を男にするために懸命の努力をしたのである。うっとりできるファースト・レディの登場は後世に待つことにして、権力と華やかさを楽しんだ女性たちの半生を振り返る。

(※「週刊新潮」2001年6月7日号に掲載されたものです。肩書や年齢は当時のまま使用しています)

 ***

 戦後の一時期、政界では「和子詣で」ということが言われた。ワンマン宰相として知られた吉田茂に陳情をするには、吉田の三女であり、側近である麻生和子に話を通すのが一番早かったのである。

 昭和13年、「筑豊の石炭王」と呼ばれた麻生太賀吉と結婚し、福岡県飯塚市に移り住んだ都会派の和子にとって、そこで過ごした数年間は少々退屈な日々だったようだ。が、戦後になって吉田政権が誕生すると、彼女は急に忙しくなる。戦時中に病死した母・雪子に代わって、事実上のファースト・レディの役割を果たすことになったのである。

「スリムで最高にシック」

 そう評されたサンフランシスコ講和会議への列席は、和子の初の大舞台だったが、同時に「女帝」「淀君」「女太閤」と呼ばれ、恐れられるようにもなる。

 外交官だった父に従って海外を転々としたせいか、和子は物怖じしない娘に育った。そして、人の好き嫌いがはっきりしていた。

 昭和25年、最高裁長官に就任した田中耕太郎は「和子人事」によって、そのポストを手に入れたと囁かれた。

 新聞は、真野毅が本命と書き、小泉信三らの名前も挙げていた。が、ある時、記者たちとマージャンをして大負けした和子は、腹いせにこう言ったとされる。

「お返しに真野さんの長官をダメにしてやる」

■鳩山一郎の妻で「鳩山家の女主人(あるじ)」といわれた


 そして、事実その通りになった。この人事を巡っては、新長官の妻が、和子と同じ聖心女学院の出身だったからだと尾ひれが付き、いかにもそれらしく賑やかに語られた。

 第2次吉田内閣で、ある代議士の入閣が流れたのも、第3次内閣で通産相が留任し損ねたのも、全ては和子のツルのひと声からだと噂された。

「あんな人、わたくしダメだと思いますわ」

 ともかくも、彼女がダメだと言えば、ダメになることが多かったのである。しかしながら、それで政界はうまくいっていたのだ、と当時を知る元記者は力説する。

「麻生和子の系譜には、庶民的なものは一切ない。曾祖父は明治の元勲大久保利通、祖父は宮内大臣を務めた牧野伸顕です。長男の太郎は衆院議員、三男は麻生セメント社長になり、長女は子爵家、次女は外交官に嫁ぎ、三女の信子は三笠宮妃です。吉田政権は、要するに日本最後の貴族政治だったのです。使命感に燃え、金にも困らない貴族が、ワンマンになるのは当然だし、政治とは本来そうあるべきものなのです。田原総一朗あたりが音頭を取る番組で精一杯名前を売り、タスキがけで頭を下げて回っている、そのへんの三流世襲議員とはわけが違う。いま必要なのは強力な貴族政治の再現ですよ」

 4代続けて国会議員が輩出した鳩山家。2代目に当たる元総理、鳩山一郎の妻で「鳩山家の女主人(あるじ)」といわれた薫――この人も貴族だ。

 東京・音羽の邸宅は、説明するのが難しいくらいバカでかい。戦時中、鳩山一郎が晴耕雨読の生活を続けた軽井沢の別荘の敷地は実に3000坪。米以外は敷地内で全て自給自足でまかなえたという。

■三木武吉や河野一郎に相談して赤坂芸者に手を引かせた


 鳩山内閣誕生を目前に公職追放となり、パージ解除の直前に脳溢血で倒れた鳩山一郎は、「悲劇の政治家」と言われた。鳩山家はそのまま昭和史から消え去るかと思われていたのだが、それを救ったのが薫の内助の功で、「奇跡の政界復帰」を遂げた鳩山一郎は、日ソ国交回復の大役を見事に果たす。

 鳩山一郎には赤坂芸者の愛人がいた。この愛人はずうずうしくて、平気な顔で軽井沢にやって来たりした。

「鳩山は、例の人と一緒に避暑しているんですよ。私なんか年をとってサービスできませんから、まあ、若い人にまかせておきましょ」

 親しい女友だちにそう漏らす一方、薫は実力者である三木武吉や河野一郎に相談して赤坂芸者に手を引かせた。「総理大臣を作った女」と言われる所以である。昭和57年、93歳の長寿を全うして永眠。

 愛人が発覚したり、選挙に落ちてみたり、「友愛」などと言いながら下らない兄弟喧嘩をしてみたり……孫たちが我々にパッとしない印象を与えるのも、祖母が立派過ぎたせいかもしれない。

 戦後最長の7年8カ月という長期政権を敷いた佐藤栄作は、ひどく無口な男だった。妻の寛子によれば、「ひどい時には、たったふた言しか話さない日もあった」という。

 当然ながら、佐藤は自分の口を開かせようとする新聞記者が大嫌いだった。

「新聞記者は出て行け。テレビはどこだ」

 遂に官邸を去ることになった日、会見場に現れた佐藤がそう怒鳴ったのは、いまや伝説である。森喜朗なんか、佐藤栄作に比べれば可愛らしいものだったわけだ。

 佐藤栄作は、大正3年、東大を出て鉄道省に入省し、本省の自動車局長から傍流の大阪鉄道局へ出された。本人はショックだったらしいが、これにより戦後の公職追放を免れる。終戦を迎えた時、エリートコースをひた走っていたライバルたちが追放の憂き目に遭ったのを尻目に、佐藤は鉄道総局長官、運輸次官と上り詰め、吉田茂の目に止まり、議員バッジなしで第2次吉田内閣の官房長官に就任する。

■歯切れのいい山口弁で快活に喋る、生涯の伴侶に恵まれた佐藤栄作


「これを足場に山口2区から出馬した佐藤は、自由党幹事長、郵政兼電気通信大臣、蔵相、通産相、科技庁長官兼北海道開発庁長官と三段跳びまがいの出世の挙げ句、池田勇人の病気退陣により、総理のポストまで手に入れたのです」(政治評論家・小林吉弥)

 要するに、ちょうどいい時に、ちょうどいい場所にいたのである。

「8年近い長期政権になったのは3つの要素があった。人材に恵まれていたこと、総理になってからも強運に恵まれていたこと、そして生涯の伴侶に恵まれたことです」

 あの松岡洋右(国際連盟脱退時の首席全権)の姪である寛子は、毎晩オールド・パーを1本空けたと言われる叔父譲りの酒豪だった。彼女は、夜回りに来る記者に酒を振る舞い、自らも飲んだ。記者たちは陰険な佐藤を嫌っていたが、寛子のことは好きで、これが長期政権を陰で支える力となったのである。

 ロクに口をきかない夫とは対照的に、マスコミ好きで、出たがりの寛子は歯切れのいい山口弁で快活に喋った。

「主人はこわいですよ。力も強いですしね。私、ずいぶんなぐられました」

 昭和44年、『週刊朝日』で遠藤周作と対談した彼女は、冗談めかしてそんな話をした。と、これが直訳され、そのまま外電として流れた。

〈お気の毒な佐藤夫人〉

〈首相に殴られていたファースト・レディ〉

 記事を読んだ先進諸国の人たちは、これをスキャンダルと受け止めた。

「私、もう首でもくくって死にたいわ」

 反響の凄まじさに音を上げた寛子がそうコメントすると、より衝撃的なニュースが世界中を駆け巡った。

〈日本の首相夫人は、“放言”を苦にして首吊り自殺を決意した〉

 この「ワイフ・ビーター事件」は、文字通り世界の津々浦々にまで浸透した。何しろルバング島に潜伏していた、あの小野田寛郎までが、この事件を知っていたのである。

〈さすが情報将校・小野田さん〉


■大使夫人の言葉を真に受けた彼女は、ヒザ上3センチのミニスカートを


 49年3月4日付の朝日新聞は、そんな見出しでこの顛末を報じている。

〈故国から離れルバング島に二十九年問いた小野田寛郎さんは、いろんな断片的知識を持っていた。横井庄一さんがグアム島で保護されたことや、佐藤栄作前首相が寛子夫人をなぐったエピソードも、「中野学校」出身の情報将校として、守備隊が全滅しても情報収集のため生き残ることを命ぜられていた小野田さんは、搜索隊が残した古新聞や雑誌から、これらの情報を知ったらしい〉

〈記事をみて、私、たいへんなショックでした。二十九年間も外界と遮断され、孤独に生きぬいてこられた、気の毒なかたの耳にまで、よりによって、こんな妙な話がとどいているなんて、こそばゆいような、テレくさいような、なんとも複雑な気持ちです〉(『佐藤寛子の宰相夫人秘録』)

 44年秋、亭主の訪米に同行することになった彼女は、どんな服装で行くべきかを駐米大使夫人に相談する。

「只今、アメリカはミニスカートが流行中です。上の格好はどうでも問題ありませんが、下はできるだけお短く……」

 大使夫人の言葉を真に受けた60過ぎの彼女は、ヒザ上3センチのミニスカートをはいて出かける。羽田を発つ時、飛行機のタラップから手を振ると、ミニはヒザ上5くらいに見えた。

〈「いい年をしてミニなんかはいて……」

 と、みなさんから悪評さくさくでした。いつになっても「ミニのおばさん」などといわれ、恥ずかしいやら、おかしいやら、まったく変な気持ちです。が、あのときは、沖縄返還のために、いくらかでも、あちらの印象をよくするなら……と、お国のためにがんばったつもりでした〉

 恐らく熱意だけは伝わったのだろう。沖縄はこの3年後に返還された。

 ざっくばらんで、愛すべきカンコさんのエピソードは数多い。佐藤寛子は、日本人が右肩上がりの明日を信じていた時代を象徴する、賑やかなファースト・レディだった。


■財閥・森コンツェルン出の女総理


「佐藤寛子さんのワイフ・ビーター事件のことはご存じだと思いますが、三木先生のお宅ではどうですか」

 ある記者が三木睦子にそう水を向けた。と、何を勘違いしたのか、睦子はこう答えた。

「うちにはありませんよ。だってあんな弱々しそうな人は可哀相で殴れません」

 三木睦子は昭和電工の創業者で、戦前の財閥である森コンツェルンの総帥・矗昶(のぶてる)の次女である。その矗昶も、睦子が幼い頃は代議士だった。

「お嬢ちゃん、あなた大きくなったら何になるの? 政治家の奥さんかな」

 父親が当選した時、取材に訪れた記者に訊ねられた睦子は、こう答えた。

「政治家の奥さんなんかにならないわよ。政治家にはなってもいいけどね」

 大財閥の娘である睦子は、三木と結婚して初めて貧乏の何たるかを知り、愕然とする。とはいえ、借金取りが来ても泰然としていた。そんな借金など、いちいち払う気はなかったのである。

〈どういわれても、払えないものは払えない。私は毎日毎日、現金がなければ暮らせない生活に、ただびっくりしてしまっていたのです。(中略)そのうちだんだん図々しくなって、「借金取りが来た、来た」と大声をあげると、掛け取りのほうが恥ずかしくなって、「奥さん、あまりみっともないことをいわないでください」といって退散したものです〉(『信なくば立たず夫・三木武夫との五十年』)

 この本は、見出しを見ただけでも圧巻である。

「吉田茂という男を見抜く」

「汚職隠しだった保守合同」

「政治は数ではない」

「“徳島戦争”の真相はこうだ」

 まるで首相その人が書いているような本なのだ。「鳩山薫と三木睦子の二人は正に女丈夫であり、その双璧と言っていい。彼女たちがいなかったら、ダンナはまず総理大臣になれなかった。三木睦子がオチンチンを付けていたら三木よりも早く総理になっていた。といわれたほどです」(小林吉弥)


■「おまえに一目惚れしてしまったんだ」と角栄


 田中角栄が『日本列島改造論』を上梓し、石油ショックと相まってインフレに発展すると、怒り心頭に発した睦子は、のちに国土庁事務次官に就任する下河辺淳のもとを訪ねる。

「あなたがこれ、書いたんでしょう」

 睦子の迫力に気圧(けお)された下河辺は思わず、「そうです」と答える。

「でも、これはもう5年も6年も前に書いたので、今とは時代がちょっとずれているんです」

「古くて使いものにならないのだったら、何で出版したの? あなたが身を楯にしてなぜ止めなかったのよ」

 すべてこの調子である。三木政権時代、女総理の異名をとった睦子は、84歳になるいまも幾多の肩書きを持って活躍中である。

 佐藤昭(当時、のち昭子と改名)が初めて田中角栄に会ったのは、新潟県柏崎市に雪が降り積もった昭和21年2月23日。生家である洋品店に、チョビ髭を生やした角栄が訪ねてきたのである。

「今度、衆議院選挙に立候補される田中さんです」

 土地の有力者に紹介された角栄は、復員服姿が当り前の時代に背広を着、カシミヤのコートを着ていた。50歳くらいに見えたが、27歳だと聞かされて、昭はちょっとしたショックを受ける。その若さで、角栄は東京にある「田中土建工業」の社長なのだった。

 誰もが敗戦で鬱々としていた時代に、自分と10歳しか違わない無名の青年が選挙に打って出ると知った昭は、選挙用のハガキ書きを引き受ける。この時の選挙では次点だったが、これが、その後半世紀近くも続く角栄との付き合いの始まりだった。

 後年、角栄はこの日のことをしばしば話題にし、昭にこう言った。

「おまえに一目惚れしてしまったんだ。あの時、連れて逃げようと思ったんだが、おまえは堅気の娘だったし、もう婚約者もいたからなあ」

 18で結婚した昭は、夫が別の女を作ったことで家を出て、25歳の時に正式に離婚する。その後、新橋のキャバレーのホステスになり、客として来店した男と再婚をするが、この結婚も、結局は破綻する。


■将来ある政治家に認知を求めるつもりはなかった……


 児玉隆也のレポート『淋しき越山会の女王』の中で、2度目の結婚相手だった男性は、離婚の原因についてこう語っている。

「私の父が定年後に商売をするので昭から金を借りたが、彼女に利息が払えなかったり、私が彼女の流産の日にマージャンをしていたりした負い目。それ以上に、いつまでたっても出世の見込みのない私の世界と、私には気の遠くなるような肩書きの人と対等につきあえ、私よりもはるかに収入の多い彼女に対するひけ目などが重なってのことです」

 政治家の秘書に過ぎない彼女が、なぜ大井町にアパートと家を建てた上、亭主の父親に事業資金を融資することが出来たのか? 昭和38年には山中湖に別荘まで買っているその時点での昭の月給は3万2000円余り。おかしい。どうにも計算が合わない。

〈マダム・デビにはほど遠いとしても現代の寓話である〉

 要するに、角サンは身内にとってはとても有り難い人だったわけだ。問題は、国民の大半が彼の身内でもなければ、秘書でもなかったということだろう。

 もちろん、昭は角栄に感謝し、そして、彼を愛した。

〈子供がほしいと思うようになった頃、夫との生活は完全に破綻していた。もはや何のつながりもなかったと言っていい。それでも天涯孤独の身だった私は、どうしても血のつながった肉親がほしかった。

 娘の誕生――それは 至福の瞬間だった。人生でもっとも大切なものが授けられたような気がした。

 将来ある政治家に認知を求めるつもりはなかった……〉(『決定版 私の田中角栄日記』)

 彼女にとっては至福でも、周囲の人間にとっては、新たな恐怖の始まりと思えたに違いない。あの当時、田中角栄の子供を産んだ女に逆らえる人間がいただろうか? そんな無謀なことが出来たのは、唯一、田中真紀子だけである。異母妹を産んだ父親の女秘書に、彼女がどれほどの怒りを抱いたかは想像に難くない。

 昭和60年2月、角栄が病に倒れると、田中家からの突然の通告により、事務所は閉鎖され、昭は秘書としての解雇処分を受ける。

 田中真紀子は土井たか子にも負けない第一級のアジテーターであり、色々な意味で注目すべき政治家である。しかしながら、どこか苛立ったような、あの漲るパワーの源泉は、佐藤昭に対する怒りにあるのかもしれない。(敬称略)

2020年8月14日 掲載

関連記事(外部サイト)