「寝首をかかれる」安倍総理が明かしていた菅官房長官への警戒心 なぜ両者に溝が?

「寝首をかかれる」安倍総理が明かしていた菅官房長官への警戒心 なぜ両者に溝が?

「無念の退場」で支持率は回復

■小学生時代から“調整役”


 安倍総理の退陣表明により、“次期総理”の座を掴んだ菅義偉(よしひで)官房長官。両者の関わりを遡ると、2007年の安倍総理退陣後、菅氏は「安倍再登板」を主張し続け、第2次安倍内閣が発足すると官房長官として安倍総理を支えた。が、いつしか安倍総理は「寝首をかかれる」と警戒心を露わにするようになり、昨年両者の溝は決定的なものになったという――。

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 秋田県雄勝郡秋ノ宮村(現湯沢市)出身の菅氏の足跡は、「叩き上げ」そのものだ。

 秋田時代の同級生の話。

「小学校時代は桃組と桜組の2クラスあり、義偉は桜組でした。で、桃組と桜組のケンカがしょっちゅうあったのですが、そういうときに義偉が間に入ってまあまあと双方を説得する。お互いの言い分を聞いて、悪いと思った方には謝らせ、それをもって、もう一方の組に行き、これで水に流してくれと頼んで争いごとを収めてしまうのです」

 早くも調整能力の高さを発揮していた菅少年。地元の高校を卒業後、上京したことについて、菅氏のHPでは以前、〈集団就職〉と記されていたが、

「義偉が東京に行ったのは事実ですが、それが『集団就職』ではなかったことは間違いない」(同)


■段ボール工場勤務から政界へ


 上京後は段ボール工場で働きながら学費を貯め、法政大学法学部に入学。卒業後、いったんは電気設備会社に就職するものの、政治の世界に進みたいとの思いを抱き、大学の学生課で法政OBの中村梅吉元法相を紹介してもらう。そして1975年、中村元法相の秘書に横浜を地盤とする小此木彦三郎代議士を紹介してもらい、秘書になるのだ。ちなみに秘書時代に知り合った真理子夫人との間に3人の子どもがいる。

 小此木代議士の秘書を11年間務めた菅氏は87年に横浜市議選に出馬して初当選。95年までの2期8年、市議をやった後、96年に衆院選に挑んで初当選を果たしている。この期間のことを知る関係者の証言を重ね合わせていくと、菅氏はここぞという時に自らの意思を貫いて「勝負」をかけ、這い上がってきたことが分かる。

 83年に小此木代議士が通産大臣に就任すると「自分が大臣秘書官をやりたい」とゴネて翌年、実際に秘書官となった。横浜市議選に出馬する際には、当時の自民党横浜市連幹事長が「神奈川区から出ろ」と言うのを拒否して西区から出た。96年に国政に進出する際には、小此木代議士の三男の八郎氏を神奈川3区に追いやり、自身は小此木代議士が圧倒的な強さを誇った神奈川2区から出馬して当選――。

 また、自らの地盤を強固なものとするために、使える人脈は徹底的に使う。その最たるものが、横浜にある港湾荷役業「藤木企業」会長の藤木幸夫氏との関係である。

 週刊新潮は5年前に掲載した特集記事「政権ナンバー2の座に2年と4カ月! 総理の椅子が欲しくなった『菅官房長官』権力の階段」で、菅氏の歩みを詳報。記事の中で、菅氏の「育ての親」である元自民党神奈川県連会長で元神奈川県議の梅沢健治氏が次のように証言している。

〈藤木幸夫さんは、“あいつ(菅氏)を勝たせる”と言って相当応援していた。藤木さんはいろんな会社をもっていて、その下に大勢の従業員がいる。そんな彼らは“藤木軍団”と呼ばれていて、選挙の半年前くらいから動いてくれる〉


■安倍総理は「寝首をかかれる」と警戒


 国政に転じてからも「勝負師」の顔は変わらない。当選の2年後、98年の総裁選では小渕派(平成研)を離脱して梶山静六氏を支援するも、結果は敗北。その後は加藤派(宏池会)に属し、2000年には「加藤の乱」に同調して無念を味わっている。

 バクチに例えるなら「負けがこんで」いた菅氏が“大当たり”を勝ち取ったのは06年。「再チャレンジ支援議員連盟」を立ち上げ、安倍晋三総理を誕生させた菅氏は、第1次安倍内閣で総務大臣兼郵政民営化担当大臣に就任したのだ。さらに、07年に安倍総理が体調不良を理由に退陣した後も「安倍再登板」を主張し続け、12年にそれを実現させた。以来、官房長官の座にあり続ける菅氏について安倍総理は、

「ある時から、“いつか寝首をかかれる”と警戒するようになりました」

 と、自民党関係者。

「警戒心を抱くようになったのは、数年前、菅さんが無派閥のグループを作り出した頃からです。それまで何でも総理の了承を得てから行動していた菅さんが、その時は総理に相談なく動いた、ということで不信感を持ち始めたのです」

 また、菅氏は内閣人事局を通じ、霞が関の人事を掌握して官僚に睨みを利かせてきたが、

「そのせいで官僚が皆、菅さんの方を見て仕事をするようになった。それも安倍総理としては不快だったようです」(同)


■菅氏の逆襲


 両者の溝が決定的となったのは、新元号を発表して「令和おじさん」として知名度が急上昇した19年。

「元号発表の翌5月、菅さんは訪米してペンス副大統領と会談しているのですが、あれは明らかに総理の座を意識した行動でした。安倍さんは当然、警戒心を高めました」(先の政治部記者)

 しかも、その訪米に同行した外務省幹部は、

「ペンス副大統領に対し、菅さんのことを『次期総理』だと紹介しています」(政府関係者)

 しかし、好事魔多し。その後、菅原一秀、河井克行両代議士ら側近たちに相次いでスキャンダルが発覚し、「ポスト安倍」レースから一旦脱落した菅氏。今年に入って新型コロナウイルスが猛威を振るい始めてからも「干された」状態が続いていたが、

「今井尚哉・首相補佐官などの『官邸官僚』が、コロナ対応を巡って布マスク配布などの失敗を繰り返し、馬脚を現しました」

 菅氏に関する著作もあるノンフィクション作家の森功氏はそう話す。

「そして菅の逆襲が始まり、安倍総理が辞任を表明すると、菅の前に総理大臣への道が敷かれていった。ただ、これは安倍総理が政権を放り投げたから総理になれる可能性が出てきただけで、なるべくしてというわけでは当然ない。だから、生まれるのは菅の『居抜き乗っ取り内閣』なわけです」

 とはいえ、「菅総理」が現実のものとなった時、

「党役員人事や組閣では、菅さんが可愛がっている河野太郎防衛相や小泉進次郎環境相を厚遇する可能性もある。彼らは将来の総理候補ですから、菅氏は総理を退いた後も『闇将軍』として影響力を持ち続けられる」(永田町関係者)

 菅氏の政治の師である梶山静六氏は「大乱世の梶山」と評された。まさに「大乱世」であるコロナ禍の今、菅氏の前に総理への道が拓けるとは、何たる因果だろうか。

「週刊新潮」2020年9月10日号 掲載

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