佐藤栄作、田中角栄、三木武夫、竹下登、海部俊樹、細川護熙と「ファーストレディ」

佐藤栄作、田中角栄、三木武夫、竹下登、海部俊樹、細川護熙と「ファーストレディ」

中国を訪問した田中角栄首相とはな夫人。後の橋本龍太郎首相や娘の田中真紀子氏といった面々も。間にいるのはケ小平

■佐藤栄作元首相が引退後に長髪になった理由とは?


 9月14日、自民党総裁選の投開票が行われ、菅義偉新総裁が誕生。その後に首班指名を受け、新たにファーストレディが生まれることになるわけだが、ここで改めて過去のファーストレディについて振り返ってみよう。

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 政界の團十郎などと呼ばれた佐藤栄作元首相(享年74)は、1964年11月から7年8カ月の間、首相の座にあった。又甥にあたる安倍晋三首相に破られるまで、連続在任日数の最長記録を保持していた。

 日韓基本条約の批准、沖縄返還を実現させ、後にノーベル平和賞を受賞している。

 その夫を支えたのが、寛子夫人(享年80)。父は東京帝大卒の医師、母は松岡洋右元外相の妹だ。

 1969年、沖縄返還協定の調印のための訪米時、ミニスカート姿で批判を受けた。

 ミニが流行していたこともあり、「下はできるだけお短く」と周囲に進言され、ヒザ上3センチのスカートを作った。

「いい年をして恥ずかしかったが、沖縄返還のためにいくらかでもあちらの印象をよくしたいと、お国のために頑張ったつもり」と、後で振り返っている。

 佐藤元首相は72年7月に内閣総辞職し、そのまま政界を引退。実はその後、髪を伸ばし始めたのだが、それは寛子夫人の勧めだったという。

 長男の龍太郎氏がかつて週刊新潮にこう明かしている。

「首相を辞めたあと、しばらくは軽井沢へ行きました。髪を伸ばし始めたのはこの時からです」

「それまでは事務所があったホテルオークラの『米倉』という散髪屋へ1週間に1度は必ず行っていた。オヤジはとてもおしゃれだったし、几帳面でしたから」

 戦時中は丸坊主、政治家時代は刈り上げて七三分けだった。

「軽井沢ではゴルフをしながら静養していました。しかし、おかげで散髪にはいけなくなりました」

 佐藤氏は毛量が多く、伸びるのも早かった。


■角栄夫人が再婚に際して出した条件とは?


「そんな折、母の寛子が長髪にすることを勧めたのです。1970年の大阪万博で各国の首脳がお見えになった時、ヨーロッパ系の人は多くが長髪で、いずれも歳相応に落ち着いた顔だちに見えたと言っていました」

「親父もヨーロッパの首脳のように見られることを期待したのでしょうね」

「親父は、首相を辞めて寂しかったこともあったと思います。母としては、親父に日常生活の中で何か気を紛らわすことを覚えさせたかったのでしょう」

 佐藤氏の側近だった粕谷茂元代議士もこう明かしている。

「あのご夫婦はまさに一心同体でした。寛子夫人は佐藤内閣時代、閣僚、幹事長など先生の番頭として働いた人の誕生日を全部メモし、密かにお祝いを贈っていました。長期政権の秘密はそこにもあったのです」

 ファーストレディの気配りが支えた超長期政権の後を襲ったのは、田中角栄首相(享年75)だった。

 彼は飯田橋に「田中土建」という建築事務所を起こした。その際に、事務所の大家の娘だったのが、後に夫人となる坂本はな氏だった。

 彼女はその10年ほど前に1度結婚して娘をもうけたものの離婚し、実家に戻っている。そして、角栄氏の事務所の手伝いをするうちに妻となったのである。

 角栄氏自ら著した「私の履歴書」によれば、夫人は結婚に際して、以下の条件を角栄氏に出したという。

「喧嘩をしても出て行けと言わないこと」

「私を嫌いになっても、足蹴にしないこと」

「将来、二重橋を渡る日(皇居に呼ばれること)があったら、自分を連れていくこと」

 最初の結婚での彼女の苦労が推察される条件だ。

 後に外相などを務める真紀子氏は1944年1月に生まれている。角栄氏が25歳、はな夫人が33歳のときだ。


■「クリーン三木」の伴侶は森コンツェルン総裁の次女


 田中家をよく知る関係者によると、

「跡取りの真紀子さんは、自宅に親戚が集まった際には、はなさんよりも上座に座らされていました。オヤジ(角栄)がいるときでも次席で、はなさんよりも上座でした」

「はなさんは家の中では控えめで、それは真紀子さんに対してもそう。再婚で連れ子がいたことに負い目を感じていたのでしょう。いつの間にか、母親の方が逆に娘にすがるような関係になっていたようにも映りました」

「はなさんが好きなワイドショーを見ていた時、角さん(角栄)と口ゲンカをしてイライラしていた真紀子さんがブチっとテレビを消してしまったことがありました。でも、はなさんは何も言えずに黙っているしかありませんでしたね」

 田中派の分裂騒動を受け、角栄は1985年2月に脳梗塞で倒れる。その後のリハビリ方針についても主導権を握ったのは、はな夫人でも真紀子氏の夫・直紀氏でもなく、真紀子氏だった。

 角栄氏は1993年12月に死去。課税対象額は約200億円にのぼった。はな夫人は角栄をおいかけるようにして95年9月に死去している。

 1974年12月、「ポスト角栄」を巡る総裁選には、福田赳夫、三木武夫、大平正芳、そして中曽根康弘の各氏が名乗りをあげる。

 党内傍流で選挙戦となれば劣勢必至だった三木氏が総裁の座を射止めたのは、自民党副総裁・椎名悦三郎氏の裁定によってだった。

 田中金権批判へのアレルギーに乗じ、札束が乱れ飛ぶ総裁公選は改革が必要だと主張した「クリーン三木」が時代の流れに乗ったということになる。

 三木氏の座右の銘は「信なくば立たず」。安倍首相は国会議員の説明責任に触れる際、この言葉をしばしば用いるし、三木武夫氏の夫人、睦子氏(享年95)も自著にその言葉を使っている。

 睦子夫人は昭和電工の創業者で、戦前の財閥である森コンツェルンの総帥・矗昶(のぶてる)の次女。その矗昶氏も、夫人が幼い頃は代議士だった。


■海部夫人もトレードマーク、水玉のワンピースで


 幼いころから、「政治家の奥さんなんかにならないわよ。政治家にはなってもいいけどね」と答えたという逸話があるほど、型破りなタイプだった。

 1937年、30歳で最年少の代議士として当選したばかりの三木氏と知り合い、40年に結婚した。

 三木氏が科学技術庁長官として入閣することが決まった時、睦子夫人は子供らとヨーロッパ旅行中だった。フランスでは公使が航空券を持って待ち構えている。

 しかし、夫人は「今から日本に帰っても、お祝いの鯛は腐っていますでしょうし」と言って、旅を続けたという。

 三木元首相は1988年に亡くなるが、夫人はアジアの女性の地位向上や難民支援活動を展開。2012年7月、95歳の誕生日に死去している。

 ちなみに、先に登場した佐藤元首相と三木氏はソリが合わなかったものの、縁戚関係はあった。

 先に触れたように睦子夫人は森矗昶(のぶてる)の次女だが、長女は安西正夫・元昭和電工社長に嫁いでいる。そして、正夫氏の兄、安西博元東京ガス会長の長女・和子は佐藤の次男の信二運輸相の夫人にあたるのだ。

 その三木内閣で官房副長官を務め、元首相の「秘蔵っ子」と言われたのが、海部俊樹元首相(89)。1989年、昭和が平成に変わった年に総裁に選ばれた。

 投票日当日、東京・千代田区の高層マンションで、テレビを通じて「海部総裁誕生」を見届けた幸世夫人は、目頭を押さえて喜びをかみしめた。海部氏のトレードマーク、水玉模様のワンピース姿だった。

 幸世夫人と海部氏とはそれぞれが国会議員の事務所で働いていた関係で、議員会館で知り合った。夫人の父は薬局経営で、祖父は長く美濃町議を務めた。


■竹下登夫人は記者に手料理を出し、時には得意な麻雀の相手をした


 海部氏が総裁候補に浮上して出馬するまで、幸世夫人を含めて家族全員はそれに大反対だったという。海部氏の前任で元芸者に「3つ指」不倫を暴露されて辞任した宇野宗祐、そして田中角栄ら元首相の名を挙げ、

《「宇野宗祐さん、あの人、幸せだったと思う? それから、田中角栄さんほどお金があるの?」とたたみかけてきた》(中日新聞2014年6月25日)

「正気なの?」とまで言われても諦めなかった夫に妻は折れる。

《しつこい人ね。仕方ないわ。あなたのやりたいことをおやりなさい》(同)

 ちなみに、海部氏と同時に総裁選に立ったのは、林義郎、石原慎太郎の各氏だ。

 読売新聞は当時、《私の夫を推薦します 自民党総裁選候補夫人に聞く》と銘打ってあれこれ聞いている。

「女性問題」についても触れているのだが、慎太郎氏の妻・典子夫人の答えを紹介しておこう。

《主人の浮気? それはありますよ。最近はさすがにないでしょうけど。まあ男の甲斐性とまでは言いませんが、妻にわかったときはちゃんとあやまって清算すべきだということじゃないですか》

 弱小派閥のボスでもなかった海部氏が首相の座を射止めた背景には、国民の政治不信があった。クリーン三木が求められた時と状況は似ている。

 その不信の主たる原因は1988年に発覚したリクルート事件であり、自らも未公開株を受け取るなどしていた竹下登首相は89年6月、消費税導入を置き土産に内閣総辞職した。

 竹下元首相の直子夫人(享年84)は1925年生まれ。1946年に2歳年長の竹下氏と結婚。竹下氏は2年前に結婚していたが、その最初の妻を出征中に亡くしている。

 島根県議から国政、そしてその中で重責を担うにつれ、自宅に記者が押し掛けるようになる。大人数になっても直子夫人は手料理を出し、時には得意な麻雀の相手もした。


■サーファーでゴルフ部主将、海外に一人旅をしていたファーストレディ


 内助の功の中、3人の娘を育てている。金丸信元自民党副総裁の長男で、テレビ山梨社長を務めた金丸康信氏に嫁いだ長女の一子さんはかつて週刊新潮にこう語っている。

「父が仕事も趣味も政治なら母は全て竹下登。世話をするのが生きがいでした。父の頑張りと母の支えを見て育ちました。両親とも我慢をするので、わがままで迷惑をかける人の方が得ではと父に聞いたことがあります。放っておけばいい、時間はかかっても社会が成敗する、と言われました。母も同じ考えで人の悪口を絶対に言わなかった」

 竹下登氏の弟で、代議士の竹下亘氏の活躍を喜び、何より孫好きで、DAIGOと漫画家の影木栄貴姉弟を応援。DAIGOのファンクラブに入り、ライブにも出かける熱の入れようだったという。

 最後に紹介するのは、55年体制を打ち破った細川護熙元首相の妻・佳代子夫人(78)だ。

 夫人は1942年旧満州生まれで、翌年に帰国し、神奈川・鵠沼に住んだ。

 高校までは近くの海でサーフィンに耽溺し、上智大ではゴルフ部女子キャプテンを務めた。

 バックパッカーよろしく海外にも一人で旅に出ている。ある会社で駐在員としてヨーロッパを担当している時に、大学同窓の細川氏との結婚を決意したという。

 関係者によると、

「プロポーズは、“君の元気と明るさが僕にあれば”というような言葉だったようです」

 結婚当時の細川氏は朝日新聞を退社した後に政界進出をもくろんでおり(1969年の衆院選に旧熊本1区から出馬して落選)、それを是としない父親から勘当状態だった。細川家の次期当主といえどもお金がなかったのだという。

 その後、参院議員、熊本県知事、衆院議員、首相と上り詰めて行く細川氏とは別に、佳代子夫人は、知的発達障害者のスポーツ大会「スペシャルオリンピックス(SO)」の活動に奔走。現在もSO日本の名誉会長を務めている。

週刊新潮WEB取材班

2020年9月14日 掲載

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