短期集中連載 工藤會 野村悟総裁「独占獄中手記」【前編】

短期集中連載 工藤會 野村悟総裁「独占獄中手記」【前編】

(提供:週刊実話)

我が国で唯一、「特定危険指定暴力団」に指定されている五代目工藤會(福岡)の野村悟総裁と田上文雄会長の逮捕から5年。いよいよ10月23日に殺人事件などの初公判が開かれる。その渦中の野村総裁が、これまで明かすことのなかった胸中を初めて綴った。

 朝7時20分。起床を知らせる音楽が鳴り、布団を上げて着替えると、点呼のために刑務官がやってくる。
「○○番、野村悟」
 私は、各収容者に付けられた呼称番号と名前を刑務官に答える。それからしばらくは、また誰とも話さない時間が続く。

 逮捕されてから、ずっと接見禁止処分を受けている私は、刑務官と打ち合わせにやってくる弁護人以外には、まず誰とも話すことはない。午前8時の朝食、正午の昼食、午後4時の夕食。その間に弁護人との打ち合わせ、15分ほどの入浴や運動の時間があり、消灯は夜9時。あとは自分の年齢の数だけのスクワット運動をする以外、読書をして過ごしている。

 これが逮捕以来5年あまり続いている私の日常だ。

 こうした拘禁生活では、普通は失語症や拘禁ノイローゼ、運動不足による腰痛などの症状が出るというが、おかげさまで今のところは至って健康である。

 シャバにいた頃も、毎朝1時間ほど山歩きをして汗をかいていたので、筋肉もまあまあついていて、体力には問題ない…と思うことにしている。

 これまで、自分のことや組織について話したことはほとんどない。裏街道を行くヤクザがあれこれしゃべるのはおこがましい――私はずっとそう思ってきたから。だが、ある弁護士から、執筆を勧められたのである。
「野村さんのように一度も代紋を替えていないヤクザはめずらしいし、ましてや工藤會はアメリカも認める最凶組織でしょう。今回の裁判は多くの人が注目している。自身とともに、工藤玄治初代からの小倉のヤクザについて記録を残しておいてはどうか」

 こう言われて、それもそうだなと考え直した。だが、「最凶ヤクザ」は心外と言うしかない。

 確かに我ら工藤會(Kudo-kai)は、アメリカ財務省から「the most violent yakuza syndicate」(最も凶悪なヤクザ組織)と名指しされたと聞いている。だが、テレビや新聞が「工藤會のしわざか?」と騒ぐ事件のほとんどは工藤會の事件ではないし、「99%が有罪」といわれる日本の裁判で、工藤會の組員たちは無罪判決もけっこう受けている。

 とはいえ工藤會の歴史をずっと見てきたのだから、あれこれと書くのも意外におもしろいかもしれない。そう思ってペンを執ってみることにした。

 なにしろ時間はたっぷりあるし、これからも、この接見禁止状態が続くのだ。
「裁判が終わるまで家族とは会わせないよ。弁護士以外の顔は見させないから」

 起訴が決まった時、取り調べの担当検事からこう言われ、私は、「ああ」とだけ答えた。平成26年9月11日に逮捕され、しばらくは取り調べを受け、平成29年10月から脱税事件の公判廷にも出廷しているが、基本的に「接禁中」であり、独房で過ごしている。

 否認を貫いているのだから、もとより接見禁止は想定内である。

 だが、そもそも接見禁止処分とは、証拠隠滅や口裏合わせのおそれがある場合になされるものだ。起訴内容を否認したとしていても、普通は捜査が終了するか、あるいは初公判が終わればとかれるものではないのか。
「ま、それだけ野村さんが大物ということですよ。我慢してください」

 弁護人は、表情を変えずにこう言った。弁護人の言うとおり、しかたないことなのだろう。

 思えば稼業入りは26か27歳と遅めではあったが、ガキの頃からずっといろんなことをしでかしては、突っ走ってきた私である。古希を迎え、立ち止まってゆっくり考える時間も与えられるようになったということかもしれない。

★四男二女の末っ子

 私の毎日は、とてもシンプルである。

 懲役であれば工場での刑務作業に従事することになるが、未決囚なので作業につかなくてもよい。「請願作業」といって、未決囚でも希望すれば刑務作業に準じた仕事もできるはずだが、ヤクザに限らず希望する者はまずいない。

 現在は接見禁止処分を受けていても、外部から差し入れを受け取ることは可能で、自費で弁当や菓子、飲み物などを買うこともできる。コンビニで売っているような弁当よりも、拘置所の麦飯の食事で十分だし、菓子などは食べない。野菜ジュースは毎日1本ずつ差し入れてもらっている。

 正直、差し入れはありがたい。ポケットティッシュ一つでも、差し入れ票に「北九州市小倉北区 ○○」などと下手くそな字で名前があると、「ああ、元気でやっておるな」と安心するものである。

 そして、もう一つの楽しみは読書である。

 週刊誌や月刊誌などの雑誌や旅行ガイドブック、漫画、小説などが中心だ。「たまには変わった本が読みたい」と弁護人に相談したら、新左翼・過激派の指導者だった荒岱介氏の自伝をもらったことがあった。

 盃を交わす時に、皇祖神である「天照皇大神」などの軸を掛けるヤクザは、天皇制に反対している左翼の思想は基本的には受け入れられない。だが、荒氏が獄中でハンストなどの抵抗をしながらも家族のことを考えていることを知り、これには共感もした。すでに荒氏は鬼籍の人だという。

 一方で、笑い話もある。いつもエロ漫画ばかり差し入れてくる者がいるので、弁護人を通じて「いい加減にしろ。オレの年も考えろ。こっちはいいジイさんだぞ。毎日毎日エロ漫画ばかり読めるか」と伝えたのである。

 あの工藤會の野村は、獄中でエロ漫画ばかり読んでいる――他人からすればおもしろい話かもしれないが、正直飽きるし、ちょっとカッコ悪くもある。だが、その伝言は間違って伝わってしまったらしい。

 「総裁は、『もうエロ漫画は差し入れるな』と言っている」という話が、いつの間にか「総裁には漫画の差し入れは禁止」になってしまったらしいのだ。

 ある者が「総裁は『ゴルゴ13』が大好きだと聞いていたのに…」と、しょんぼりしていたと弁護人から聞いて、苦笑するしかなかった。その男は『ゴルゴ13』のデューク東郷の大ファンで、コスプレのような格好までしていたからだ。その後は漫画の差し入れは「解禁」となり、私はありがたく読んでいた。ただし、現在は弁護人を通じた差し入れ以外は許されていない。

 別の裁判で、ある関係者に差し入れられた小説が「口止めや復讐を示唆している」として、検察官が差し入れ禁止を求めたからだ。差し入れられた小説から、何かのメッセージを読み取るようなセンスのいい若い者が、うちに何人おるのかはわからないが…。とにかく、そういうことであった。

 制限された中でもおもしろい本を読んできたので、読書については、また改めて書きたい。

 私の生い立ちについてだが、脱税の公判に際し、毎日新聞は私のことをこう報じていた。
〈捜査関係者らによると、野村被告は裕福な農家の四男として旧小倉市(現北九州市)で生まれた。中学時代から不良仲間と自動車盗などを繰り返し、少年院を出入りした。20代で工藤会系組員の舎弟になると、組織内の抗争をくぐり抜けて昇格を続け、’11年(平成23年)7月に64歳で総裁に上り詰めた〉(平成29年11月1日付)

 まあ間違ってもいないのだが、別に私はトップになりたくてヤクザになったわけではないし、総裁職とは「ご隠居さん」のようなものである。〈上り詰めた〉という感じではない。

 報道のとおり、私は昭和21年、当時の小倉市、現在の北九州市に男4人、女2人の末っ子として生まれた。売却が決まった工藤會本部のあたりは、かつてほとんど父が所有していた土地だ。父は「(北九州日豊線の)南小倉駅の線路の南側でいちばんの働き者」といわれ、酒を飲んでも陽気な男であった。家庭内暴力ともまったく無縁であり、母も兄や姉たちも含めて誰もヤクザの関係者はいない。ヤクザになったのは私だけである。

★「ワルソウ」を率いて

「そんな裕福な家庭に育ったのに、なぜヤクザに?」
 たまに聞かれることではあるが、なぜ私がヤクザになったのかは、私にもわからない。しいて言えば「性分」なのだろう。

 だいぶ前に若い者がカラオケで尾崎豊の歌を歌うのを聞いたことがあったが、それに「自分がグレたのは性分」という歌詞があり、耳に残った。尾崎は「グレる」ということを、芯からわかっているなと思った。グレるとは、まさに「性分」としか言いようがないのだ。

 もっとも、小倉という街の空気もあるだろう。私が子どもの頃は戦後の混乱期でもあり、まだ炭鉱労働者や沖仲仕もたくさんいて、それはにぎやかで熱気があった。ガラが悪いともいえるが、八幡製鉄所から続く北九州工業地帯も高度成長を支えることになる。

 もちろん、戦争で親を亡くしたりした貧しい子どもたちもたくさんいた。工藤會のメンバーも、故・溝下秀男御大をはじめとして、大半は貧困家庭の出身である。こうした子どもたちが食っていくために何でもやるのは、いたしかたないことでもあった。

 北九州では、悪ガキやいたずらすることを「ワルソウ」という。漢字にすれば「悪僧」となるが、私は子どもの頃からこのワルソウたちを集めては悪さを繰り返し、揚げ句の果てに少年院に放り込まれて中学校の卒業式にも出られなかった。いいお坊っちゃんが何をしとるか、と呆れられるかもしれないが、私はこれこそが生粋の極道だと思う。

 不良になるのに理由などいらないし、高校や大学に行っているようでは、ヤクザとして中途半端でいけない。もっとも、私が盃をもらうことになる木村清純氏(のちの工藤会田中組二代目)は大学を出た。何にでも例外はあるということだ。

 この木村氏は私の博奕の師匠でもあり、博奕のやり方だけではなく賭場での所作なども教えていただいた。垢ぬけてスマートな俠であった。昔は、こんなヤクザもたくさんいた。無茶苦茶やるのもヤクザだが、立派な俠客として生きるのもヤクザの道である。

 だが、私が木村氏から盃をもらったのは、自分が博徒として生きたかったからで、別に「親分」と呼ばれたいと思ったわけではなかった。博奕をするには、組に籍があったほうが何かと都合がいいのである。

 博奕は十代の頃から好きで賭場に出入りしており、大負けして親の土地を売って穴埋めしたこともある。母を泣かせてしまうことになり、これは今となっては悪かったと思っている。

 そんなことを振り返りながら、稼業入りの経緯や抗争事件などについて、ペンを走らせてみようと思う。

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