六代目山口組 高山清司若頭 四国・関東「極秘遠征」の裏

六代目山口組 高山清司若頭 四国・関東「極秘遠征」の裏

(提供:週刊実話)

10月26日、JR新横浜駅は休日を楽しむ人々で賑わい、混雑していた。スーツケースを引きながら軽やかな足取りで改札に向かう家族、話に花を咲かせながら駅を出る若い女性たち。近くにある横浜国際競技場では、ラグビーワールドカップの世界ランキング1位、2位による注目の対決が開かれるため、はるばる海外から駆け付けた外国人観光客の姿も多く見られた。

 そんな平和を絵に描いたような光景の中で、スーツに身を包んだ屈強な男たちだけが異様な雰囲気を漂わせていた。腕には「警察」と書かれた黄色い腕章を着け、新幹線の改札口に何度も視線を向ける。改札前にも捜査員が居並び、制服警察官を含めるとその箇所だけで約20人もの警察官が集まっていた。さらに、改札内にも腕章を着けた捜査員らが一定間隔で立つ。厳重な警戒態勢が敷かれたのは、世界的イベントの開催が理由ではなかった。

 午前10時半すぎ、捜査員らの視線が一点に集中した。その先には5〜6人の集団が見え、捜査員がピタリと張り付く。見るからに重量のある名古屋の老舗和菓子屋の紙袋を両手に提げた者や、防弾盾が入っていると思われる薄いケースを提げた者が同行。その先頭を歩くのは六代目山口組(司忍組長)・髙山清司若頭だった。一行はエレベーターで階下へ降り、送迎車に乗り込むと駅を離れていったのだ。

 六代目山口組直参の姿はなく、三代目弘道会(竹内照明会長=愛知)の最高幹部らのみが同行していたため、“極秘”で動いたことがうかがえた。
「新横浜駅といえば、目的は稲川会(清田次郎総裁、内堀和也会長=東京)やろ。10月20日には内堀会長が名古屋に単身で出所を祝いに来とるから、その返礼やないか」(ベテラン記者)

 再び髙山若頭一行が新横浜駅に戻ってきたのは、午後4時半前で、到着から実に6時間後のことだった。
「清田総裁とも顔を合わせたんやないか。最後に会談したのは、平成26年6月の収監直前やったからな。積もる話があったはずや」(同)

 ところが、髙山若頭は2時間ほどで会談場所を退出していたというのだ。
「六代目山口組の神奈川に本拠を置く直系組織に寄ったみたいだ。“激励訪問”であり、組織の引き締めの意味も含んでいたんじゃないか」(関東の組織関係者)

 髙山若頭の“極秘遠征”は、これにとどまらなかった。10月22日にも、急きょ他県へ飛んでいたのだ。

 当日は親戚・友好団体が放免祝いに訪れる予定だったため、本誌取材班は名古屋駅で到着を待ち構えていたのだが、正午を過ぎても車両の乗降場所に出迎えと見送りを担当する弘道会の最高幹部や、組員が現れる様子がなかった。

 すると、“防弾鞄”を手にした組員が車から降り、続いて六代目山口組の薄葉政嘉幹部(十一代目平井一家総裁=愛知)が姿を見せた。客人の出迎えを直参が単独でこなすはずもなく、しばらく事態を見守っていると、高級ミニバンが横付けされ、当の髙山若頭が姿を現したのだ。

★全9団体が駆け付ける

 予想外なのは、それだけではなかった。髙山若頭は名古屋から3時間かけ、愛媛県へと向かったのである。
「実は、前日に三代目山口組(田岡一雄組長)時代に直参となった初代矢嶋組・矢嶋長次元組長が亡くなっとった。渡辺芳則五代目体制の発足時には盃を受けなかったんやが、山口組を支えた功労者やから、訃報を聞いた髙山若頭は急きょ通夜に向かったんやろ」(関西の組織関係者)

 髙山若頭は、午後1時前に名古屋駅から新幹線に乗り込んで岡山駅を通過し、広島県・福山駅で下車。さらに、そこから車両で移動し、「しまなみ海道」を通って午後4時すぎに今治市内の葬儀場に到着した模様だ。

 葬儀場には、すでに森尾卯太男本部長(大同会会長=鳥取)や安東美樹若頭補佐(二代目竹中組組長=兵庫姫路)ら、三代目矢嶋組(中山和廣組長=愛媛)が所属する阪神・中四国ブロックの直系組長が到着しており、髙山若頭を出迎えると、午後5時から通夜が営まれたようだ。
「司六代目が掲げる『先人顕彰』の方針を、出所早々に自ら率先して体現したということやな。下獄前と変わらぬ髙山若頭の姿勢を、組内にも示したと言えるんやないか」(同)

 亡くなった矢嶋元組長は、昭和11年生まれで兵庫県明石市の博徒だったが、若くして三代目山口組の大幹部だった地道行雄組長の盃を受けた。博奕の旅修業中の昭和34年、今治の博徒・森川鹿次親分に気に入られて娘婿となり、翌年、田岡三代目の盃を受けて山口組直参となった。同時に矢嶋組を結成。松山市に進出し、昭和39年には地元組織との間で抗争史に名高い市街地での銃撃戦を繰り広げた。

 昭和49年、森川親分の引退に伴って跡目を継承。二代目森川組組長となり、竹中正久四代目体制で舎弟に直った。五代目体制発足時に脱退し、程なく引退。矢嶋組の系譜は、一昨年8月に死去した山田忠利二代目から中山三代目へと受け継がれている。

 この矢嶋元組長の通夜前日にも、親戚・友好団体による訪問があり、稲川会に続いて松葉会(伊藤芳将会長=東京)が名古屋入りしていた。六代目山口組の藤井英治若頭補佐(五代目國粹会会長=東京)と高木康男若頭補佐(六代目清水一家総長=静岡)の案内で弘道会傘下の組事務所へ向かった伊藤会長らは、髙山若頭と2時間に及ぶ会談を行ったのである。

 さらに23日は“訪問ラッシュ”となり、まず野村孝若頭補佐(三代目一会会長=大阪北)、髙野永次幹部(三代目織田組組長=大阪中央)、弘道会最高幹部らの出迎えを受けて六代目共政会(荒瀬進会長=広島)が到着。続けて七代目合田一家(末広誠総長=山口下関)、二代目親和会(𠮷良博文会長=香川)も名古屋駅に降り立った。一行は六代目山口組・津田力若頭補佐(四代目倉本組組長=和歌山)、𠮷村俊平幹部(四代目𠮷川組組長=大阪中央)、若中の金田芳次・二代目大原組組長(大阪生野)らの案内で送迎車に乗り込み出発。

 さらに、七代目会津小鉄会(原田昇会長=京都)も六代目山口組・江口健治若頭補佐(二代目健心会会長=大阪浪速)、若中の鈴川驗二・六代目早野会会長(大阪平野)らと共に現れ、髙山若頭のもとへと向かったのだった。

 10月25日には双愛会(椎塚宣会長=千葉)と東声会(早野泰会長=東京)の一行が到着。朝から激しい雨が降り続いたが、六代目山口組・藤井若頭補佐と高木若頭補佐が丁寧に案内していた。正午前には、三代目福博会(長岡寅夫会長=福岡)が六代目山口組・安東若頭補佐、若中の、井上茂樹・二代目大石組組長(岡山)、野元信孝・三代目岸本組組長(兵庫神戸)と共に現れ、髙山若頭の元へ向かった。

 それぞれ滞在時間は30〜40分ほどで、祝詞を述べたのちに歓談し、改めて“平和共存路線”の意思確認も行われたようだ。
「出所直後から超過密スケジュールをこなす髙山若頭だが、その念頭には常に分裂問題があるはずだ。現状把握を終えたのち、本格的に動き始める可能性もある」(山口組ウオッチャー)

 抗争が激化する中で髙山若頭が現場復帰し、六代目山口組はどう“スクラム”を展開させるのか。新たな戦いは始まったばかりだ。

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