短期集中連載 工藤會 野村悟総裁「独占獄中手記」【中編】

短期集中連載 工藤會 野村悟総裁「独占獄中手記」【中編】

(提供:週刊実話)

殺人罪などに問われた野村総裁の公判が、10月23日に幕を開けた。審理は長期間に及び、60人以上もの証人が出廷する見込みだ。“闘争”は始まったばかりだが、暴力団トップとして史上初の死刑が求刑される可能性も囁かれている。獄中から現在の心境を明かした。

 平成26年9月11日の朝、5時ごろに届いた西日本新聞の朝刊を開くと、〈工藤会最高幹部立件へ 福岡県警 ’98年殺人 関与の疑い〉という見出しがデカデカと出ていた。1998年の殺人? なんのことだか、まったくわからなかった。この時は西暦2014年。ずいぶんと昔のことである。そもそも自分の逮捕の記事を逮捕直前に本人が読むなんて、SF映画のようだ。

 そうこうしているうちに、家の上をたくさんのヘリコプターが旋回する音も聞こえてきた。「総裁、ここはいったん身をかわしましょう」と言い出す者はいるし、若い者たちはオロオロするしで、大騒ぎになってしまった。そうは言っても来るものはしかたないし、どうせ撮影されるのだから着替えておくか…くらいに考えていると、ドアチャイムが鳴った。警察官に取り囲まれ、捜査令状を読み上げられても、やはりピンとこない。元漁協組合長の射殺だと言われ、これについては朝刊にも〈工藤会系組幹部3人が実行犯として殺人罪などで起訴され、1人は一審で無罪、2人は2008年に最高裁で無期懲役などの実刑が確定した〉と書かれていた。つまり終わった事件なのだが、私が射殺を指示したという殺人罪と銃刀法違反の容疑だった。

 普段は「最凶ヤクザ」などと酷評しているわりには、ずいぶんネタが古い。驚くしかなかったが、その後も私は身に覚えのない事件で再逮捕を繰り返されることになる。もっとも私の逮捕については以前から噂があり、あまり気にしてはいなかった。カッコつけるわけではないが、ヤクザたるもの座る(収監される)ことを嫌がったり、怖がったりしたらおしまいである。盃を受けた時、肝に銘じていたことの一つだ。

 もちろん、身に覚えがなければ無実を主張するまでだが、逮捕自体は警察の決めることであり、避けようがない。逮捕の少し前に、確度が高いと言われる会員限定のネットニュースで〈Xデー迫る! 福岡県警が工藤會壊滅に向けての頂上作戦開始、トップ逮捕へ〉などと出たのを見て、これは逮捕もあるか…と思っていた程度である。

 だが、それがいつなのか、何の件なのかは見当がつかなかった。思い当たるフシが多すぎるということはなく、普通なら事前に複数の関係者から「○○の件で捜査が進んでいます」とか、「□□の件で野村さんの名前も出ていますよ」などとタレコミがあるもので、今回はそれもなかった。

 以前からではあるが、警察庁が「福岡県警では工藤會を潰せない」として、独自に内偵を進めているとも聞いていた。福岡県警は“蚊帳の外”であり、今にして思えば、これこそが「国策捜査」だった。

 そして、私は何も知らないまま9月11日を迎えたのである。

★「工藤組がなんぼのもんか」

 裁判については弁護団にすべて任せてあるので、前回に引き続き工藤會と私について書いていこうと思う。ただ、紫川事件の起こる13年前に、当時の工藤組幹部・草野高明親分の実弟を刺殺し、北九州で力道山の興行を打った山口組系のヤクザこそ、平成10年に射殺された元漁協組合長である。「善良なカタギを射殺した工藤會」のように報道されていることには違和感があるので、これだけは書いておきたい。

 さて、現在の工藤會の前身は、昭和24年に福岡・旧小倉市で工藤玄治親分が立ち上げた「工藤組」である。小倉市は昭和38年に若松市や八幡市などと合併して北九州市となり、北九州工業地帯を中心に産業も多く、豊かでにぎやかな街である。工藤初代は生粋の博徒で、その俠ぶりは大したものであった。

 山口県下関市の合田一家の初代・合田幸一親分や、稲川会初代の稲川聖城総裁とも親しく交流していた。私は工藤初代からも指導を受けることができた身であるが、のちに三代目田中組を継承したのも工藤初代の鶴のひと声があったからだ。
「野村、自分で自分を決めたら(評価したら)つまらんぞ。他人が決めることやからの」

 この工藤初代の言葉が、今も心に残っている。

 そして、初代工藤組の若頭で二代目工藤組となる草野親分も博徒らしい博徒で、惚れ惚れする男前であった。賭場での所作も堂々としており、とても勉強になった。とはいえ、私はヤクザになる気などなかった。何不自由なく生まれ育ち、家業を手伝うこともなく博奕に明け暮れていたので、ヤクザになる理由などなかったのだ。賭場で工藤組の関係者を見かけても、むしろ「工藤組がなんぼのもんか」くらいに思っていた。まさに気分は「一本独鈷」である。

 一方で、博徒としての道を極めたいとも考えるようになっていた。そこで出会ったのが、のちに工藤組系二代目田中組を襲名する木村清純親分である。工藤組にしては珍しく東京の大学を出ており、服装も所作も東京仕込みで垢抜けていた。

 この清純さんは博奕も見事に強かった。当時の博奕の主流はホンビキ(手本引き)といって、6枚の札の中から「親」が選んだ札を「子」が推理するのだが、心理戦であり究極の博奕ともいわれた。私もこのホンビキにハマり、十代の頃から小倉だけでなく博多や大阪、京都、東京にも出張って賭場を回っていたほどだ。

 こうしてほとんど運命的に私は清純さんに出会い、ホンビキを習ううちに若い衆としてヤクザ人生を歩むことになった。ただし、清純さんから盃をもらったのは、26か27歳の頃であり、ヤクザとしてのスタートは遅いほうである。ちなみに、五代目工藤會会長の田上文雄は16か17歳で当時の工藤会の門を叩き、「ボク、もう少し大きくなったらおいで」と言われたそうだ。

★溝下先代「アルマーニ事件」

 私は組に入ることで、自分で賭場を仕切れるようにもなったのであるが、私が田中組に入ってしばらくしてから、バクチの主流はホンビキからタブ賽に変わっていく。これは、真ん中に穴を開けた鉢と3つのサイコロを使うもので、勝負が早く、時代のスピードにも合ったのではないかと思う。高度成長期後半でバブル経済に向かっていた昭和50年代は、景気のいいシロウト衆も賭場に出入りするようになっていた。薄暗い賭場で、ヤクザがイカサマをしてシロウトをたぶらかす時代は、終わりつつあったのである。

 何もかもが大衆化され、我々の業界も上げ潮の時代となり、私は相変わらず大勝ちしたり、大負けしたりしていた。もちろん、負けた時には親の土地を売って穴埋めした。そうした中で、小倉のヤクザは抗争の時代を迎えることになる。

 きっかけは紫川事件であった。昭和38年、小倉南区の紫川に山口組系の組員二人の遺体が遺棄されたのだ。この事件で当時の工藤組系草野組・草野高明組長が首謀者として逮捕され、獄中から工藤組脱退と草野組解散を発表する。

 当時の主だったヤクザが次々に逮捕されていた「第一次頂上作戦」で、工藤親分に累が及ばないようにという草野親分の配慮であったが、独断であったために工藤親分が激怒し、草野親分を破門してしまう。これが、のちのちまで「工藤派」と「草野派」の骨肉の争いが続いた原因である。もとは同じ組織であったことで、対立抗争はより悲惨になってしまった。

 抗争の歴史や、溝下秀男先代の恩讐を越えた工藤會の立ち上げについては次回に譲るが、分裂した組織を再び一つにまとめた溝下先代は、稼業入りした当時から「逸材」と言われていた。

 先代が溝下組を率いて草野一家入りしたのは33歳の時で、私よりも遅い稼業入りだった。若い頃に賭場荒らしをしていて、草野親分にいさめられたのが縁で草野親分の盃を受けることになったのだが、博奕は嫌いだった。荒らしに行ってカネだけ取っていたのだ。

 だから、溝下先代は私の博奕好きも快くは思っていなかった。直接、私に文句は言わず、田上に「困ったもんよのう」などとグチっていたらしい。そして、茶目っ気もあり、負けず嫌いでもあった。「アルマーニ事件」などは今でも思い出し笑いをしてしまう。

 だいぶ前だが、ある直系組長が当時、流行っていたイタリア高級ブランドのジョルジオ・アルマーニの洒落たズボンをはいているのを、先代がめざとく見つけたことがあった。
「おい、そのズボンは何か」
「アルマーニというブランドです。親分はご存じなかですか?」

 ちょっと自慢気に言われた先代は激怒した。
「何か! そんな南蛮のモン! 日本人なら日本のモンをはかんか!」
 叱られた組長は、しかたなく事務所では国産を着るようにしたが、ある日気づくと、先代が澄ましてアルマーニでキメていたという。しかも、「やっぱりアルマーニはよかね」と講釈までたれていたそうだ。
「いやー、あんときは驚きましたばい」

 組長は笑いながらこう言っていた。先代にまつわるこんな話は枚挙にいとまがない。いろいろな意味で伝説的だったのである。

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