神戸山口組 古川幹部射殺 自動小銃で30発を乱射

神戸山口組 古川幹部射殺 自動小銃で30発を乱射

(提供:週刊実話)

買い物客で賑わう日常的な光景が一変した。現場に通じるすべての道路には、数十メートル手前から規制線と青いビニールシートの幕が二重三重に張られ、上空をマスコミのヘリコプターが旋回。集まった報道陣は規制線が解けるのを待ったが、鑑識作業は長引き、事件発生から24時間後にようやく終了した。おびただしい数の弾丸を探すために時間を要したと思われ、事件の壮絶さを物語っていたのだ。
「ダッ、ダッ、ダーンという大きな音が連続して聞こえてな。何があったのかと思って外に出たら、店の前に男性が仰向けに倒れていて、周りを3、4人が取り囲んでいた。倒れた男性は呼びかけにも答えず、ピクリとも動かんかった」(近隣住民)

 11月27日の午後5時ごろ、兵庫県尼崎市で神戸山口組(井上邦雄組長)の古川恵一幹部が、六代目山口組(司忍組長)傘下組織に所属していた朝比奈久徳元組員によって射殺された。近隣住民が話したように、発射された弾丸は1発や2発ではなかった。不発弾も含まれていたが、その数、約30発。古川幹部は十数発を浴び、即死の状態だったという。

 事件は、古川幹部の息子が経営する飲食店の目の前で起きた。
「4、5年前に息子さんが店を始めてから、(古川幹部も)よう店に来てたで。その頃はいつも若い子(組員)を連れてたけど、最近はいつも1人で来てたな。道で会ったら『元気か?』と声を掛けてくれる親しみやすい人やった」(別の近隣住民)

 しかし、古川幹部の息子は詐欺と窃盗の疑いで兵庫県警に再逮捕(5月29日)、起訴され不在だったため、古川幹部も店に立って営業を続けていた。そのことを知っていたのか、朝比奈元組員は犯行の数日前から店に通い始め、古川幹部との距離を縮めていったようだ。

 事件当日も店を訪れた朝比奈元組員は、店内にいた古川幹部に対し、乗ってきた軽乗用車の駐車場所をたずねたという。古川幹部は案内するため店外に出て、車両を誘導。止め終えた朝比奈元組員と店に戻るため見守っていたが、古川幹部に向けられたのは礼の言葉ではなかった。車から降りた朝比奈元組員の手には、自動小銃が握られていた。

 店は阪神尼崎駅から500メートルほど離れ、商店街と並行する南側の通りに位置する。夕方は買い物客で賑わい、店が面する通りも地元住民が頻繁に行き交っていた。そんな中、朝比奈元組員は古川幹部に自動小銃の銃口を向けて乱射したのだ。

 かわす間もなく至近距離で銃弾を浴びた古川幹部が最後に目にしたのは、朝比奈元組員の冷酷な姿か、無機質な銃口だったのか、それとも生まれ育った尼崎の空だったのだろうか。冷たい路面に仰向けに倒れ、すでに抵抗できない状態だったにもかかわらず、なおも銃弾が浴びせられた。犯行を遂げた朝比奈元組員は、再び軽乗用車に乗り込んで逃走。高速道路を使い、京都府に向かったのである。

 事件発生の約1時間後、尼崎の現場で目撃されていた車両のナンバーと同じ軽乗用車を、40キロ以上離れた京都南インター付近で警察官が発見し、停止を求めたという。運転していたのは朝比奈元組員で、警察官に拳銃を向けて威嚇。発射することはなかったが、多数のパトカーに囲まれて身柄を確保された。

「警察官に拳銃を向けたことによる公務執行妨害の疑いと、自動小銃、回転式拳銃、実弾を所持していたことによる銃刀法違反の疑いで現行犯逮捕されました」(全国紙社会部記者)

 ところが、朝比奈元組員が京都に逃走したのは、次なる犯行に及ぶためだったとみられた。神戸山口組・髙橋久雄幹部の雄成会が本拠を置いており、身柄を確保された京都南インター付近から組事務所までは、車で15分ほどの距離にあった。実際、逮捕された朝比奈元組員は、襲撃する予定だったと供述したという。

 しかし、ある関西の組織関係者は、当初から京都で逮捕されることを目的に、尼崎から向かった可能性もあると指摘した。

「当日、京都には天皇、皇后両陛下が滞在しとって、府内は警察官だらけの厳戒態勢やった。そこに拳銃持って行ったらどうなるかくらい、分かるやろ。本当に髙橋幹部を狙とったんなら車を乗り換えるなりして、警察の追跡をかわそうとしたはずや。犯人の目的は、髙橋幹部も危ないで、いうことを暗に警告するためやったんと違うか」

★武器の知識を持っていた

 10月18日に六代目山口組・髙山清司若頭が出所して以降、神戸山口組幹部が連続して被害に遭う事件が発生。11月18日に熊本県で清崎達也幹部(四代目大門会会長)が二代目伊豆組(青山千尋組長=福岡)系組員に切り付けられ、翌19日には北海道にある青木和重幹部(五龍会会長)の組事務所兼自宅に三代目弘道会(竹内照明会長=愛知)系組員が車両を突入させた。それぞれの幹部の本拠地で起き、清崎幹部は命を落としかねない状況だった。

 さらに、射殺された古川幹部は昨年3月に十一代目平井一家(薄葉政嘉総裁=愛知)系組員らによって襲われていた。今回の事件が起きた息子の飲食店で食事をし、程近い自宅へ妻子と共に帰宅する道中で被害に遭い、今年7月にも件の店の前で弘道会直参に“襲撃”された。狙われ続けてきたにもかかわらず、古川幹部は警備組員をつけることはなかったようだ。

「古川幹部は神戸山口組の発足メンバーやなく、分裂した平成27年末に六代目山口組から移籍しとる。当時は二代目古川組組長やったけど、神戸山口組が分裂して任侠山口組(織田絆誠組長)が発足したことで、古川組まで割れた。その責任を取ってか、仲村石松三代目に古川組を譲り、自身は総裁に就いたんや。けど、それも退任して、直近では神戸山口組からの引退を申し入れとったいう話もあるで」(ベテラン記者)

 一方、朝比奈元組員の経歴にも山口組分裂と無関係ではないことがうかがえた。

 四代目山健組(井上邦雄組長)当時の生島組傘下だった篠原会で副組長を務めていたが、服役中に山口組が分裂。篠原会は六代目山口組に残留し、安東美樹会長の二代目柴田会(当時)に加入した。柴田会は分裂直後に二代目竹中組(兵庫姫路)へ改称し、安東組長は平成29年、若頭補佐に昇格。社会復帰を果たした朝比奈元組員は竹中組の若中として活動したが、平成30年12月5日付で破門処分となった。さらに、今年8月には覚醒剤取締法違反容疑で岐阜県警に逮捕され、射殺事件の2日後に岐阜地裁で判決を控えていたのだ。

 射殺事件を受け、朝比奈元組員への処分は、上位者に容疑が及ばないための“偽装破門”ではないかという見方も一部ではされたが、ジャーナリストの鈴木智彦氏は、こう話す。
「安東若頭補佐にも可愛がられていたが、朝比奈元組員にはクスリの前科があって、ヨレた末に破門されたと聞くから偽装だったとは考えにくい。むしろ、処分を受けた朝比奈元組員は、世話になった安東若頭補佐に迷惑を掛けてしまったと気に病んでいた可能性のほうが高い。今回の犯行は恩返しのつもりで、自動小銃M16を使ったのも安東若頭補佐へのリスペクトかもしれない。山一抗争で、安東若頭補佐が一和会・山本広会長の家を襲撃したときに使った道具だから。ただ、保釈中だったのは、通例なら数百万円になる保釈金を納めていたからであって、誰が用立てたか分からない。それに、愛知県在住なのに、判決を控えていた覚醒剤事件は岐阜県でのことだった。朝比奈元組員に“空気が入った”とすれば…」

 また、銃器評論家の津田哲也氏は、朝比奈元組員の撃ち方について、武器の知識を持っていたと指摘する。
「犯行に使用された自動小銃は米軍が採用したM16の派生型で、銃身が30〜40センチ短く軽量化され、ジャングル戦などに向けて改良されたのです。22口径で有効射程距離は500メートルですが、1発の威力は回転式拳銃と同じ。M16に適合するのは確実に人体を貫通するフルメタルジャケット弾で、人道的な理由から殺傷ではなく相手の動きを止めることを目的としたものです」

 しかし、至近距離から複数発を浴びた場合では、話が違う。被弾した古川幹部の身体は、原形を留めない部分もあったほどで、司法解剖の結果、死因は脳挫滅と心臓挫滅と判明した。
「相当数の不発弾もあったということですが、M16は1950年代に投入されていますから、だいぶ前に密輸され、弾が古くなっていたのではないでしょうか。ただ、フル装填30発の中に不発弾があったにもかかわらず、犯人は撃ち続けており、武器に関して素人ではなかったことが分かります。というのも、不発弾によって弾詰まりが起きるため、それを手動で解消しないと次の弾は撃てません。知識のない人間ならば、弾詰まりした時点で放り出してしまうでしょう」(同)

 朝比奈元組員が逃走に使った軽乗用車も事件の3日前に尼崎市内で借りたレンタカーで、計画的な犯行だったことがうかがえる。11月29日には京都南署から移送され、兵庫県警によって殺人容疑で逮捕された。犯行に及んだ動機や武器の入手先などについて、取り調べが進められている。

★通夜に捜査員50人が警戒

 翌30日、尼崎市内の斎場で通夜が営まれ、古川幹部の出身母体である古川組・仲村組長や同組幹部らが早々に到着していた。井上組長をはじめ神戸山口組の直系組長らが参列。池田孝志最高顧問(池田組組長=岡山)と中田浩司若頭代行(五代目山健組組長=兵庫神戸)、竹森竜治舎弟(四代目澄田会会長=大阪港)の姿は確認できなかったが、代理で最高幹部が訪れていた。会場前では、防弾チョッキを着込んだ兵庫県警の捜査員ら約50人が厳戒態勢を敷き、通夜は緊迫した雰囲気に包まれたのだ。

 翌日も兵庫県警が警戒に当たる中、古川家の葬儀・告別式がしめやかに営まれ、井上組長も会場入りして古川幹部に最期の別れを告げたのだった。

 一昨年4月に神戸山口組から離脱した直系組長らが任侠山口組を結成し、古川組も分裂した際、古川幹部は本誌のインタビューに応じた。実際に内部で何が起きていたのか明かす一方で、自身の思いも、こう切々と語った。
「急いで花隈(山健組本部のある場所)に行かなあかんもんで、このヤクザ人生40年間で初めて阪神電車に乗りましたよ。三宮駅に行ってタクシー乗って。でも、マスコミの皆さんがいるもんやから、あんまりにも格好悪くて近くでタクシーを降りました。悔しいというより惨めで、親父(実父の古川雅章・初代古川組組長)に申し訳ないと思いました」

 インタビューを終え、煙草を吸いながら談笑する姿が印象的だったが、その笑顔はもう誰にも向けられることはない。

★四十九日法要と渡辺五代目命日墓参 山健組中田組長が背負う使命

 古川幹部射殺事件が発生した前日の11月26日、三代目山口組(田岡一雄組長)の若頭だった山本健一・初代山健組組長が眠る兵庫県神戸市内の墓地に、中田浩司・五代目山健組組長の姿があった。山本家の墓所には山健組の慰霊塔が隣接しており、10月10日に命を落とした傘下組員2人の四十九日法要が営まれたのだ。

 三代目宮鉄組(松森治組長)・佐藤隆保組員と福富組(福富均組長)・中川健司組員は、山健組本部近くで三代目弘道会傘下の丸山俊夫幹部によって射殺された。この事件が引き金となり、六代目山口組総本部や神戸山口組本部などが使用制限を受けたのだった。

 中田組長や最高幹部らが、見守る中、2人の遺骨が納骨された。このとき、中田組長には強い決意があったと思われる。なぜならば、法要の直前に極秘盃を挙行していたからだ。
「中田組長と最小限の人数が集まり、神戸市内で盃儀式が執り行われたようや。盃を交わしたのは竹本均舎弟で、かつては六代目山口組・二代目中西組(布川皓二組長=大阪中央)に所属したと聞くで。北陸地方に拠点を置いて活動したが、一時的に業界を離れとったそうや。加入のいきさつは分からんけど、大安でもなく、亡くなった組員たちの法要当日に盃を挙行したのには、意味があったんやないか」(関西の組織関係者)

 中田組長は神戸山口組の若頭代行に就いており、“陣頭指揮”を執る立場にある。抗争が激化する最中での極秘盃は、報復に向けた動きにも思えた。
「初代山健組から掲げられるスローガンは『団結、報復、沈黙』や。古川幹部まで犠牲になった今、これまでの怒りが爆発しても不思議やないで」(同)

 また、古川幹部の告別式が営まれた12月1日は、奇しくも渡辺芳則・山口組五代目の命日だった。神戸市内の墓所には、午前8時前から神戸山口組・岡本久男舎弟(二代目松下組組長=兵庫神戸)が姿を現し、宮下和美舎弟頭補佐(二代目西脇組組長=同)も合流。剣政和若頭補佐(二代目黒誠会会長=大阪北)が到着したのち、正木年男舎弟(正木組組長)も現れた。

 雲ひとつない青空のもと、墓前で手を合わせる直系組長らの表情から、その胸中を読み取ることはできなかった。しかし、緊迫した状況下で墓参に訪れた背景には、山口組を率いた渡辺五代目への変わらぬ思いがあったからに違いない。

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