太田興業電撃解散! 神戸山口組が直面した新たな危機

太田興業電撃解散! 神戸山口組が直面した新たな危機

(提供:週刊実話)

「まさに青天の霹靂や。引退だけでも驚きなのに、解散するとは何があったんやろか」(関西の組織関係者)

 神戸山口組(井上邦雄組長)・太田守正舎弟頭補佐の引退と、自身が率いる太田興業(大阪浪速)の解散。それは、あまりにも突然のことで、当の神戸山口組関係者ですら予想外だったようだ。しかし、神戸山口組が納会を開いた当日、その太田舎弟頭補佐が“不可解な動き”を見せていたのだ。

 12月13日、兵庫県神戸市にある二代目西脇組(宮下和美組長)の組事務所には、テレビ局など20人近い報道陣が殺到した。

「年明けにも六代目山口組(司忍組長)と神戸山口組が特定抗争指定を受ける可能性が高まって、主要箇所での会合が見納めとなるからやろな。3日には中田浩司若頭代行(五代目山健組組長=兵庫神戸)が、三代目弘道会(竹内照明会長=愛知)の神戸拠点での組員銃撃事件で、実行犯として兵庫県警に逮捕されとるし、今後の動向に注目が集まっとる証拠や」(地元記者)

 当日、兵庫県警は機動隊を動員して厳戒態勢を敷いた。警視庁や大阪、京都両府警からも捜査員が駆け付け、組事務所周辺は異様な雰囲気に包まれた。

 そんな中、寺岡修若頭(俠友会会長=兵庫淡路)らが到着し、午前10時半前後からは各地の直系組長が乗った車両が、正門前に次々と横付けされた。午前11時すぎには太田舎弟頭補佐も到着したが、10分後、再び建物の外に姿を現し、車両に乗って立ち去ったのだ。

「納会が始まる前で、井上組長も来とらんのに帰ったもんやから、体調不良やないかと思うたけど、しっかりした足取りで表情も引き締まって見えたんや」(同)

 現場には多数の報道陣がいたが、直系組長らの姿を捉えようと動き回り、混乱に陥っていたため、当初、この“不可解な動き”はさほど注目されなかった。むしろ、報道陣や捜査員は井上組長の到着に集中して、正門に群がった。その直後、屈強な山健組の警備組員が現れて周辺を警戒すると同時に報道陣の身元確認を行い、状況が一変したのだ。

「組員が社員証の掲示を求めてな、持っとらんマスコミ関係者は正門前から強制的に排除されたんや。山健組本部近くで組員2人が射殺された事件では、実行犯だった弘道会傘下の丸山俊夫幹部が、週刊誌のカメラマンを装っとったからやろな。せやけど、6日の緊急会合のとき警備組員はおらんかったし、二代目竹中組(安東美樹組長=兵庫姫路)の朝比奈久徳元組員に射殺された古川恵一幹部の通夜・葬儀でも、今回ほど厳しくはなかったで。急に井上組長のガードが強化された感じやった」(同)

 実際、井上組長を乗せた高級ミニバンは事務所勝手口にピタリと横付けされ、狭い隙間を山健組直参や警備組員が埋めるようにして完全ガードしたのである。

 その後、入江禎副組長(二代目宅見組組長=大阪中央)と池田孝志最高顧問(池田組組長=岡山)が続けて姿を現し、太田舎弟頭補佐を除く直参全員(一部代理)が到着。例年は礼服姿での出席だが、今年は古川幹部の喪中であり、全員がごく普通の背広姿だった。

 注目の納会は午前11時半すぎから始まり、15分ほどで終了。各直系組織の若頭クラスが出席する「若頭会」も開かれ、こちらも短時間で終わった模様だ。しかし、若頭らが退出したあとも、多くの直系組長が組事務所内にとどまっており、午後1時半すぎにようやく井上組長が帰途に就くと、残っていた寺岡若頭らも相次いで引き揚げていったのだ。

 令和2年度の神戸山口組組指針は〈不易流行〉で、意味は〈初心を忘れず時代の変化を読み取り、柔軟性を持って改革して行く〉だという。だが、新たな気持ちで戦いに向かおうとしていた神戸山口組は、再び危機に直面したといえる。

「納会のあと、太田舎弟頭補佐が引退を決め、太田興業が解散したと聞こえてきたんや。すぐには信じられんかったが、太田舎弟頭補佐が納会に出席しないで立ち去ったことや、しばらく井上組長たちが残っとったことを踏まえると、ガセではないと思うたで」(同)

 衝撃の事実について、他団体幹部はこう話す。

「服役していた太田興業の若頭が11月末に出所して、組織の結束は強化された印象だった。特定抗争指定が現実味を帯びてきたときも、太田舎弟頭補佐は立ち向かう姿勢だったと聞くが、何か心境の変化があったのか、納会当日、端から出席しないつもりで西脇組を訪れ、寺岡若頭に自身の引退と組織の解散を告げたそうだ。すぐに出てきたということは、考えを変える気がなかったからだと思う」

 太田興業でも当日は納会の予定で、大阪市内には直参らが集まっていたという。そこで太田舎弟頭補佐は同様のことを宣言し、覚悟を示したのである。

 平成28年に神戸山口組に参画して現役復帰を遂げ、執行部メンバーとして組織運営に携わってきた太田舎弟頭補佐の引退、解散宣言は、あまりにも突然だった。

「分裂抗争によって太田興業からも逮捕者が出ており、若い衆の将来を思ってのことだったのかもしれない。もしくは、思うところがあって強硬手段に出たか」(同)

 現役復帰する前の平成27年、太田舎弟頭補佐は著書『決別 山口組百年の孤独』(サイゾー刊)を出版。本誌のインタビューに答えた際、携帯ストラップとして肌身離さず持ち歩いている渡辺芳則・山口組五代目の写真を見せながら、長年、変わることのない五代目への熱い思いを語っていた。

 そんな太田舎弟頭補佐の決意表明は、神戸山口組にとって中田若頭代行の逮捕に続く“大打撃”といえたが、トップ不在の山健組でも12月14日に六代目健竜会(西川良男会長)の事務所で納会が開かれ、結束を確認。出席者の中には、任侠山口組(織田絆誠組長)系組員への暴行事件で傷害罪に問われて服役し、8日に出所した橋本憲一若頭補佐(橋本会会長)の姿も見られた。

 席上、新年度の組指針〈敢為邁住〉が発表された。その意味は〈目的に向かって困難をものともせず自ら思い切って、まっしぐらに進んで行くこと〉だという。また、與則和若頭が中田組長の言葉を代読し、「心配するな」といった趣旨の内容を伝えたようだ。

「神戸山口組、山健組とも指針には立ち向かう決意が読み取れる。言葉にこそ含まれていないが、組員2人の命を奪われた山健組には、報復の構えすら感じられる」(業界ジャーナリスト)

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