1989.2.28福島女性教員宅便槽内海士事件〜Sさんを"殺した”のは誰なのか?

女性教員宅の便槽内で死亡していた25歳の男性。厳寒の季節に半裸で、入り込むのも困難な狭い中での投資など、不審な点は尽きない。

 それ以上に不可解なのは、これらの点について特に操作が行われず、真相が闇に葬られたことだーー

 ※ ※

 その不可解な事件は、1989(昭和64/平成元)年2月28日、福島県田村郡都路村古道(現・田村市都路町古道)にある古道小学校(現・都路小学校)の校庭に隣接する平屋の教員住宅で起こった。このときから、現在も犯人が捕まっていない平成初の未解決事件である「福島女性教員宅便槽内怪死事件」(通称「福島便槽事件」)が世に広まっていくのだが、まずは事件の流れをざっと記してみたい。

 その日の午後6時ごろ、教員住宅に住んでいた女性教員のHさん(23歳)は、用を足そうとトイレに足を運んだ。中に入り、何気なく汲み取り式の便器の中を見たところ、人の頭がある。驚いたHさんは外に出て、汲み取り口に足を運んでみたが、なぜか蓋は開いており、汲み取り口から人の足が見えたのだった。

 Hさんはすぐに、同じ教員住宅に暮らす同僚の教師を呼び出し、警察に通報。最初に駆けつけたのは、教員住宅から歩いて5分もかからない場所にある駐在所の警察官だった。その後、消防団員、管轄の三春署の警察官らが駆けつけ、便槽内にいるのが男性であることを確認する。そして、引っぱり出そうとしたのだが、便槽の筒の直径は36センチ。成人男性が入るにはほぼ不可能であるほど狭いのだが、なぜか男性はすっぽりと便槽にはまっていたため、数人の大人の力でも抜き出すことはできなかった。

 人の力ではどうにもならないと考えた警察官らは、男性がすでに死亡していたため、重機を使って便槽を掘り起こし、便槽を壊してようやく男性を取り出したのだった。

 ここまでの説明を読んだだけでも、この事件の異様さは伝わるであろうが、おかしなことはそれだけにとどまらなかった。不思議なことにその遺体は、上半身裸だったのだ。この都路村の当夜の気温は4・9度。にもかかわらず、男性は着ていた上着を胸に抱え、膝を折り、顔を左に傾けた状態で死後硬直していたのだった。

 便槽から取り出された遺体にはまず、その場で水洗いが施された。さらにその後、消防団の詰所に運ばれてからも、再び洗われたという。医師による検視が行われる前に二度も洗われてしまったことを、あとあと人々は後悔することになる。

 その後、ようやく医師による検視が行われた結果、死因は狭い場所で圧迫されて呼吸困難となり、真冬の時期ということもあって凍死に至ったと報告された。それを受けて警察は、遺体には肘や膝にかすり傷があるだけで、特に目立った外傷はなく、争った形跡もなかったことから、被害男性が便槽に入って死に至ったこと、そして死後硬直の状況から、遺体発見の2日前の2月26日ごろに亡くなったと発表。そして遺体の身元も、現場から車で10分ほどの、同じ村内に住んでいるSさん(25歳)と判明したのだった―。

 以上が事件発生の流れだ。警察の発表をそのまま信用すれば、Sさんは自らの意思でHさんの汲み取り便所に外から侵入し、のぞき見しようとして亡くなったことになる。

 故人にとっても残された親族にとっても、これは不名誉極まりない死に方と言える。仮にSさんが、過去にも便槽に忍び込むまではしないまでも、村内で不審な行動を取ったり鼻摘まみ者のような扱いを受けていたとするならば、誰もが村で起きた珍事件として折に触れて話題になる程度で、いつしか忘れ去られる「事故」に過ぎなかっただろう。ところが、今もって事故ではなく、「謎の事件」として人々の興味が尽きないものとなっているのは、つまりこれが単なる事故ではなかったことを物語っているからだ。

★死亡推定時刻までの容疑者の不可解な足取り…

 そもそも、この事件が今もって謎とされるのは、発生当初から警察発表に対して、村内で「おかしい」と声をあげる人が後を絶たなかったことにある。

 当時、Sさんは原発保守点検をする会社で営業主任として働いていた。さらに村内では青年団の一員でもあった。そこでは面倒見がいいと評判で、遺体発見現場に暮らしていたHさんとも面識があり、彼女がいたずら電話に悩まされていた時には相談に乗るなどしていたというのだ。

 そんな間柄でありながら、のぞき見するとは考えにくくはないだろうか。

 ちなみに彼女は、大葬の礼が執り行われていた2月24日から27日まで休暇を取っており、実家に帰省していたため現場には不在だった。そのことに関しても、Sさんが知っていた可能性があり、そんな状況でのぞき見はますます現実的ではない。

 そして一方のSさんは、遺体で発見される4日前の24日から、忽然と姿を消していた。23日に開かれた知人の送別会には出席していたが、翌日午前10時ごろ、父親に「ちょっと行ってくるからな」と言って車で出かけ、そのまま行方不明となっており、家族によって捜索願が出されていた。

 乗っていた車は、教員住宅から歩いて3分ほどの場所にある農協前の個人宅の庭に置かれていた。しかも、車はロックされておらず、鍵がついたまま。さらに不思議なことに、履いていた靴の片方が、近くを流れる川の土手で発見されているのだ。

 24日に家を出てから亡くなるまでの2日間、Sさんはどこで何をしていたのか。なぜ、Hさんがいない日にのぞきをしようとして、身動きが取れなくなって息絶えたのだろうか。

★執拗に口を割らない住民たち

 果たしてこの事件の真相はいかなるものなのか。私は現地へと足を運んでみることにした。

 東京から車で3時間ほど。常磐自動車道を下りて、さらに阿武隈高原の山道を40分ほど走り、都路町に入った。そこで私は、見かけた人に声をかけてみることにした。まず最初に声をかけたのは、60代の女性だった。

「あー、あの事件な。おかしな事件だったよな。被害者の人は、すごく真面目で、そんなのぞきなんてする人じゃねぇって話だよ。みんなおかしいな、おかしいなって話はしてたけども、真相は闇の中だべ」

 では、やはり事故ではないということだろうか。

「どうなんだかな。それはわからないけど。被害者のお父さんが必死になって、テレビに声かけたりしてたから、納得はしてなかったんじゃねえか。事件後しばらくして映画ができたりして、都路の人は気になってはいたけど、見に行っちゃダメだっていう雰囲気になっていたな。みんな、おかしいとは思っているよ。話せるのはそこまで。あんまりこの話は、したくないんだ」

 彼女の言葉は、奥歯にものが挟まったような印象だった。私は次に、被害者が暮らしていた地区に向かった。一軒の商店に入ると、年の頃70代と思しき女性が店番をしていた。

「30年前、男性が便槽で発見された事件について聞きたいんですが?」

 私がそう聞くと、女性の表情が一瞬で引きつったのがわかった。そして、返ってきた答えは思いもしないものだった。

「そんなの知らんよ」

 私はなおも、「この近くの男性が亡くなった事件ですよ。ご存知のはずです」と食い下がったが、彼女はなぜか店内には誰もいないのに「しーっ」と口に人さし指を立てて、黙るようにと目で語る。それから、カウンターを出て手招きをしながら言ったのだ。

「私は詳しいことは知らないの。ちょっと来て、そのことについて知っている人のところを教えるから」

 女性は店を出ると、直線距離で500メートルほど離れた場所にある一軒の家を指さした。

「あそこの人なら何か知ってから。新しい家だぞ」

 私は、礼を言って車に乗り込んだ。バックミラーを見ると、彼女は店の入り口に立ったまま、私がどこに向かうのか凝視していた。

 それにしても、30年前の事件にこれほど過剰に反応するというのは、どういうことなのだろうか。

 女性に聞いた「新しい家」はすぐにわかった。そこでは、網戸越しに一人の男性が、書類を手にしながらパソコンに何かを打ち込んでいるのが見えた。この事件について知っているというのは、その男性だろうか。

玄関に回ってしまうと体良く追い返される気がしたので、私は網戸越しにいきなり声を掛けようとした。するとその男性は、機先を制して玄関に回るように指さした。

 仕方なく玄関に回ると、男性の妻だろうか、いぶかしげな顔をした女性が立っている。私は手短に「30年前の事件のことで、ご主人に話を聞きたい」と要件を伝えた。すると、彼女の顔はさらに険しいものとなった。
「何のことですか? 事件なんて知りませんよ」
「この近くのSさんが亡くなった事件です」
「はぁ、そんなことはありましたかね。私たちはもう80歳で、そんなことは覚えてないんです。若い人に聞いてもらったほうがいいですよ」
「若い人だとわからないんです。ちょうどお母さんが50歳ぐらいのときのことですよ」
「いやぁー。もうボケちゃっているから、何にもわかんないんですよ、覚えてないんです。他に行ってもらったほうがいいですよ。何にもわかりません」

 パソコンを使っている主人がボケているようには見えなかったが、このような押し問答を続け、私は諦めた。この頑なまでに何かを隠そうとする態度に接して、今回の案件は間違いなく事故ではなく、事件であることを確信したからだ。

★証拠の遺体は即座に洗われ便槽も破壊された…

 さらに取材を続けていく中で、私はようやく証言してくれる女性に出会った。
「亡くなったSさんは立派な人だったよ。小学校の運動会でも一生懸命に協力してくれて、子供たちと組体操をしていたのが印象に残ってるよ。警察は何もかもずさんでしょう。遺体を洗ってしまったり、現場も立入禁止にしないで便槽を壊したりと、全然捜査しなかった。捜査を願う署名が4000人分も集まって、Sさんの親戚には警察の関係者もいたんだけど、その人たちも上から何か言われたみたいで、結局黙ってしまったんだ。子供の名誉のためだから、もう少し頑張ってもよかったんじゃねえのと思ったけどな。何かを必死に隠そうとしている人がいるってことだな」

 私は別の人から、原発推進派の村長の応援を途中でやめたことで根に持たれていたという説などを聞いていたので、その話をぶつけてみた。

「みんな原発に食わせてもらったところだからな。それまでは、仕事といえば農業だけで、現金を手にする手段なんてほとんどなかった。原発のおかげで子供たちを大学に行かせて、就職できたって人が多いよ。だから、何が起きてもおかしくないんじゃないの」

 1971(昭和46)年に営業運転を開始した福島第一原発は、事件の起きた都路村から直線距離にして20キロほどのところにある。都路村は阿武隈山地の高原地帯にあり、緩やかな山容をした山々が連なり人々の心を和ませてきた。そんな都路村の様子を一変させたのが、2011年に発生した人類史上未曾有の原発事故である。

この事故により、住民にも精神的、肉体的な苦痛をもたらしたのだが、それでもいまだに原発への感謝の言葉が出てくるほど、原発以前は山間地という地理的な条件ゆえに苦しい生活を強いられてきた歴史がある。

 江戸時代には村人がほぼ全滅するほどの飢饉が発生しており、そのためこの地に古くから暮らす人々の多くは、新潟などからの移住者たちだ。

 そう考えると、原発とは、この都路村にとってまさに命綱といってもいい。それをめぐるいさかいにより、血を招くこともあるのかもしれない―。

★30年前の事件が今も終わっていない

 その後、私は原発関連企業を経営する男性に話を聞いた。福島で生まれ育った彼は、20代の頃から原発と関わり続けている。

「田舎は金ですからね。原発の利権がらみで、仕事をもらうためにみんな必死です。下請けともなれば、いくら元請けに詰めるかっていうのが大事になってくるんです。仕事から外されたら、それで終わりですからね。車を買ってあげたり、家を建ててあげたり、裏金はつきものですよ。選挙となればなおさらです。村だと投票率が100%近くで、人口も少ないから、都会とは一票の重みが違うんです。少なくとも一票1万は払っていますよ。被害者も営業マンだったとなると、顔も広かったでしょう。その人が裏切ったら、10票や20票は動きます。これは大きいです、恨みを買うには十分でしょう。だって、選挙に負けたら仕事がなくなって生きていけなくなるんですからね」

 やはり、この事件の裏では原発をめぐる利権が渦巻いていたのだろうか。

「はっきりと、この事件がそうだよとは言えない。だけど、おそらくそうじゃねぇかというのはありますよ。警察も、事件の構造が見えているから動かなかった。事故として処理すると思います。断定はできないけども、都路村の事件は原発がらみじゃねぇかと思います」

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 私は都路町を出て、福島第一原発の方向へと車を走らせた。すぐに車は帰還困難区域へと入り、かつて水田だった土地は見る影もなく、セイタカワダチ草などの雑草に覆われていた。民家には当然ながら誰もおらず、まさしくゴーストタウンと化している。

 原発事故による荒野を眺めながら、改めて今回の事件のことを振り返った。

 事件が発生したのは昭和天皇が亡くなり、平成が始まった年のこと。そして私が事件の起きた都路町を訪ねたのは、ちょうど令和を迎え、皇位継承式典が執り行われている最中のことだった。つまり、30年以上の年月が経過しているわけであるが、地域の人々は今も事件に関して頑なに口を閉ざし続けている。言ってみれば、事件は終わっていない。この土地が事件に対して、果てしなく重苦しい空気に包まれていることが意味するのは、警察の発表が間違っているということではないか。

 警察は、なぜあっさりと事故扱いにしたのか。ほかにも疑問は尽きない。失踪中の被害者の足取りをつかむ上で重要な証拠となるはずの胃の内容物についても、何の発表もされていない。警察は何かを隠蔽している。私には、原発に絡んだ村の中での暗闘が、事件の背後には潜んでいるように思えてならない。

 この事件の背後に潜む闇は、果てしなく深い―。

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