シベリアの冬越せず24歳で…やっと分かったおじの消息 遺族「昔話にしてはならぬ」

シベリアの冬越せず24歳で…やっと分かったおじの消息 遺族「昔話にしてはならぬ」

小野ミチ子さんが入手したソ連当局作成の山口一義さんの「抑留者登録カード」の写し。「46年2月18日、栄養失調のため死亡」と黒インクで書かれている

 戦後75年を迎える。人々の戦争の記憶が薄れる中、新たに記録によって肉親の死の様子を確認する人もいる。東京都板橋区成増の小野ミチ子さん(81)は、旧ソ連のシベリアに抑留されたおじの死を記録したソ連の文書を厚生労働省を通じて手に入れた。亡くなった事情を初めて知り「歴史を伝えることができる」と話している【青島顕】

 佐賀県北有明村(現白石町)出身で、母の弟にあたる山口一義さん(1921年生まれ)は干拓地で農業をしていた。近くに住んでいた小野さんは、ヤギを飼っていたことなどを覚えている。戦時中に出征したまま帰ってこなかった。消息は分からなかった。

 小野さんは2016年、新聞記事を見てシベリア抑留経験者の絵画展に出かけた。会場にあった研究者が作った死亡者名簿を見ると、一義さんの名があった。民間団体の「シベリア抑留者支援・記録センター」代表世話人の有光健さんの助言で、一義さんとのつながりを証明する戸籍などの書類を佐賀県から取り寄せ、18年に厚労省に記録を請求した。

 数カ月後、ソ連当局が捕虜管理のために作り、厚労省に提供した一義さんの個人登録簿や入院した病院の記録、死亡証書、埋葬証書の写しが届いた。1946年2月にロシア中南部・アルタイ地方のルプツォフスクで栄養失調のために死亡し、現地に埋葬されていた。24歳だった。旧満州(現中国東北部)で終戦を迎えた後、ソ連の捕虜とされて収容所に送られ、寒さと飢えから倒れ、最初の冬を越せなかったようだ。

 断片的な情報だったが、小野さんは初めて知ることばかり。「病院で闘病していたのですね。消息が分かって心がほっとしました」と振り返る。

 父の弟、又四郎さん(25年生まれ)も戦争で満州に行ったまま帰らなかったが、又四郎さんの記録は見つからなかった。

 小野さんは昨年8月に千代田区の千鳥ケ淵戦没者墓苑で開かれたシベリア抑留の死者を追悼する集いに出席。遺族を代表してあいさつし、こう話した。「『赤紙』一枚で人の命を取り扱った(国の)責任は大きい。多くの人が命を奪われ、涙を流した事実は決しておとぎ話や昔話にしてはならない」

関連記事(外部サイト)