葬送行進曲で読み解く「#びわ湖リング」 原典回帰・演出の功績とは?

 「ジークフリートの葬送行進曲」はお好きですか?

 「ニーベルングの指環(ゆびわ)名曲集」のタイトルでレコードやCDを制作するなら、十中八九収録される曲。ワーグナーの作品中でも屈指の有名曲ではあるが、ちょっと大げさで、心に突き刺さる美しい旋律が聴けるわけでもない。筆者は最初に聴いた中学生の頃に悪い第一印象を刷り込んでしまい、この曲を単体で聴くことがおっくうになった。そして3月7、8日にびわ湖ホール(大津市)で無観客上演され、インターネットで無料ライブ配信された「神々の黄昏(たそがれ)」が、積年の苦手意識を覆してくれた。苦手返上の理由はいったい何だったのか。それを考察することで、ネット上で大きな反響を呼んだ「びわ湖リング」の成功の鍵らしきものが見えてきた。【濱弘明】

演出家は「何でもできる」

 びわ湖ホールが独自のプロダクションとして2017年に始めたリング4作品の通し上演は、神々の黄昏によって物語の「環」を閉じることで、国内地方劇場による空前の偉業となるはずだった。ところが新型コロナウイルスによるイベント自粛の波をもろに受け、上演8日前に中止を決定。スタッフの機転によりネット配信する運びとなり、「びわ湖リング」「BiwakoRing」の愛称が地域を超え、海を越えて多くの人に共有されるようになった。

 4部作の演出を担当したのはドイツ人のミヒャエル・ハンペ。カラヤンをはじめ多くの名指揮者と共同作業を経験してきたハンペは既に84歳だが、リングの演出は初体験だった。「黄昏」の企画が本格始動した昨年9月、筆者はハンペにインタビューする機会を得て、彼の演出哲学にじっくりと耳を傾けた。

 「オペラの学校」(OPERNSCHULE)などの著書があり、ドイツの大学でも後進の指導にあたるハンペはオペラにおいて、音楽と歌と演技の結びつきに重きを置く。「演出家は舞台上で何でもできる」と宣言しつつ、演出家の自由にさまざまな制約を課す。「オペラというのはストーリーを音楽を通して物語るもの」であり、「作曲家が書いた音楽に演出家が同意する」「舞台上で行われていることを客席から理解できる」という前提を守れないのであれば、「演出家が新しい音楽を生み出すべきだ」と主張する。

読み替え演出とオペラの現代性

 ハンペの言葉の背景には、近年のヨーロッパにおけるオペラ演出の潮流がある。バイエルン王ルートヴィヒ2世の支援により1876年に完成したワーグナーのための施設「バイロイト祝祭劇場」では、その100年後の1976年、フランス人パトリス・シェローが、リングの時代設定を「産業革命後の社会」に読み替えた新演出を世に問うた。これと前後して、リングのストーリーや設定を大幅に変更した「読み替え演出」が次々に登場するようになった。

 リングに明確な時代設定はなく、登場人物の言葉(歌詞)にも象徴的・哲学的な内容が多い。びわ湖リングを指揮した沼尻竜典も「ワーグナーの作品にはさまざまな解釈を許容する懐の深さがある」といい、読み替えの可能性を否定してはいない。

 上演される作品の大半が第二次大戦以前に作曲されたクラシックの世界において、表現の形は時代とともにアップデートを繰り返してきた。オーケストラ曲であれば、作曲家が生きた時代を知る指揮者の「解釈」が重視された時代に続いて、「楽譜に忠実な演奏」を志向する演奏が主流になった。さらに、曲が作られた時代の楽器や奏法を再現する流派が登場し、近年ではオリジナルの編成を採用しつつ、より自由で大胆な表現も行われている。

 音楽と演劇の要素が共存するオペラの場合、上演のあり方の決定権は演出家と指揮者の間でバランスを取ることになるが、近年では演出家の位置づけが大きくなる傾向にある。そして表現の形をアップデートする方法の一つが、読み替え演出になる。作曲されてから長い年月を生き延びてきた作品であるとしても、その舞台設定は作曲された時代のコンテクスト(文脈)に沿って作られている。過去の時代を生きた作曲家と現代の観客とを結びつける目的のもとに、原作を翻案して提示するのが演出家の役割だという主張が一定の支持を得て、読み替え演出は続けられてきた。

ト書きに忠実な舞台は「反動的」なのか

 さて、本題に入ろう。

 ハンペのリングは4作を通して、ワーグナーの台本の忠実な再現を目指してきた。それ故に、多くのワーグナー作品の再現の場に立ち会った熱狂的なワグネリアン(ワーグナー好き)の一部から、「新味のない退屈な演出」と批判されることも珍しくなかった。

 びわ湖リングの演出意図についてハンペは語る。「私のコンセプトはオペラ自体。演出する人間は音楽を理解し、扱える人間であるべきだ。ワーグナーは各場面で『何を言いたいか』を、常に音楽で表現し続けている。リングでは、ライトモチーフ(示導動機)というシステムによって全てを語る」

 ライトモチーフとは、特定の登場人物、場面、状況などを象徴するフレーズのことだ。一つのライトモチーフは別の場面で変化を加えたり、他のライトモチーフと重ね合わせたりしながら何度も登場し、物語をクライマックスに向かって緻密に編み上げていく。

 チェロ演奏もたしなむハンペは、ワーグナーの長大なスコア(総譜)を読み込み、ライトモチーフの用法を解析した上で演出にあたった。最新のコンピューターグラフィックス(CG)とプロジェクションマッピングを活用して、ワーグナーが求めるスペクタクルな動きを実現した上で、ライトモチーフと舞台上の動きをリンクさせるように徹底した。

 そもそもリングの台本は実現不可能なことを大量に要求する。ラインの乙女は水中で歌い、ワルキューレは馬に乗って天を駆け、神々が虹を渡る。ハンペ演出では一つ一つの実現可能性を検討し、多くを形にした。こうした新規性を無視して、保守的で反動的だと決め付けることは、公正な評価と言えるのだろうか。

ワーグナーが描いた終末と再生

 今回の演出のコンセプトはもちろん、3年前に「ラインの黄金」が上演されるずっと前から決まっていた。そして黄昏の舞台がほぼ完成する時期になって、新型コロナウイルスによる肺炎の感染が中国から世界各地へと広がっていった。再びハンペの発言を持ち出そう。

 「偉大なる作品というのはもろもろのテーマが連なって出来上がっている。時代によって重点が変わることはあっても、一つのテーマに絞って演じるのは作品に対して真摯(しんし)な態度ではない。リングでは最初に自然が破壊され、(権力の象徴である)ニーベルングの黄金があり、指環には呪いがかけられ、呪いが解けると全てが崩壊し、自然が戻って来る」

 汎用(はんよう)性の高い題材を扱っているのに、あえて読み替える必要があるのか? という問いかけでもある。

 Zu End' ewiges Wissen!

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 Weise nichts mehr.

 永遠の知もこれでおしまい!

 我々、知の女神がこの世に知らせることは

 もはや何もない

 黄昏の序幕の一節。運命の綱が切れて第3のノルンがこう歌い、神々の時代の終わりを予言した時、筆者は現代の世界が置かれた状況に思いをはせた。休みなく第1幕に流れ込み、神々の長ヴォータンの娘だが神性を剥奪されたブリュンヒルデと、妹ワルトラウテが口論する場面。指環をラインの乙女に返還してほしいという妹の要請を、「ジークフリートとの愛の形見」だからと拒否するヒロインの姿には、ひとたび動き出した歯車を止めることが困難な、世の無常を感じた。

 今回のリングの舞台がもし、特定の時代やテーマに置き換えられていたとしたら、こんな連想はしなかったかもしれない。

ワーグナーの理不尽な要求を形に

 ハンペは物語が進行する中、ライトモチーフが奏でられる場面で舞台にさまざまな変化を与えることによって、鑑賞者に音楽と舞台の密接な関係を明示的に認識させていく。映画「フィツカラルド」(ヴェルナー・ヘルツォーク監督)などのプロダクションデザインでも知られるヘニング・フォン・ギールケによる幻想と写実の間を漂うような舞台美術が、演出の効果をさらに高めた。

 そして筆者が苦手にしている「ジークフリートの葬送行進曲」は英雄ジークフリートが唯一の弱点である背中をハーゲンの槍(やり)で二突きされて絶命する第3幕第2場から最後の第3場への場面転換の音楽として演奏される。びわ湖リングでは遠方から俯瞰(ふかん)したジークフリートの葬列を、舞台手前に張られた紗幕(しゃまく)に投影して下手から上手へと移動させる。下手には葬列を見送る人影が見える。これは、「さすらい人」に姿を変えてジークフリートの成長を見守ったヴォータンを描いているのだろう。

 葬送行進曲の音楽は、過去に登場したライトモチーフを積み重ねることで、ヴォータンが人間に産ませた双子の兄妹の子として生まれたジークフリートの生涯を振り返る構成になっている。葬列が物語の最後の舞台であるギービヒの館に近づき、ライトモチーフ「剣の動機」「ジークフリートの動機」が高らかに奏でられた時に、約15時間にわたる長大なオペラのクライマックスにふさわしい音楽であることを、思い知らされた。

 そして最後の場面は「不可能を可能にする」ことを狙った演出の最大の見せ場となる。ブリュンヒルデが掲げていた松明(たいまつ)を薪(まき)の山に投げ入れると2羽のカラスが飛び立ち、ブリュンヒルデは愛馬とともに炎の中に飛び込む。館は炎で焼け落ちて指環はラインの乙女の手に渡り、天上にある神々の広間も炎に包まれる。文字にするだけでは理解しがたいほどのめまぐるしいト書きの指示に対して、「馬に飛び乗る」以外のほぼ全てをビジュアル化して、幕は下ろされた。

ハンペは「隠れ頭巾」を使いこなせたのか?

 「作品とそれを表現する歌い手が大きく花開くように仕向けて、自分自身は消えてしまうこと。これこそが私の役割だ」

 ハンペは演出家の理想像をそう定義する。黄昏の作中で、ジークフリートが隠れ頭巾を使ってギービヒ家の当主グンターに化け、ブリュンヒルデをだまそうとしたように、このプロダクションでの演出家の願いは、舞台から自らの痕跡を消すことだった。

 演出の話題が続いてきたが、演奏に触れないのはフェアではない。沼尻が指揮する京都市交響楽団は、迫力ある音楽を鳴らし続けた。旋律線だけでなく内声の響き、音量にも細心の注意を払う沼尻の要求に的確に応え、強奏の中でも音のつやを失わなかった。特に2日目の葬送行進曲以降は、ブラス隊の咆哮(ほうこう)がホールを揺らすほどで、沼尻は「京響がこんな音を出すのかと驚き、オーケストラピットの壁がなければのけぞって倒れていたところだった」と述懐した。

 歌手陣は両日の配役の違いが、そのまま演奏の個性になった。初日にジークフリートを演じたベテラン、クリスティアン・フランツは強靱(きょうじん)な声を朗々と響かせることで若き英雄を表現した。2日目のエリン・ケイヴスはより「若さ」が際立つ歌唱だった。今年のバイロイト出演が決まった初日のブリュンヒルデ、ステファニー・ミュターはフランツと堂々と渡り合った。2日目の池田香織はメゾソプラノの深みのある声を低域から高域まで安定して響かせ、「日本人の」という前置きを必要としない卓越した歌唱を披露した。妻屋秀和、斉木健詞による強そうなハーゲン、かれんな安藤赴美子と尊大さも漂わせる森谷真理のグートルーネは、役柄に対する解釈の違いが興味深かった。新国立劇場合唱団とびわ湖ホール声楽アンサンブルの合同チームは、地を揺らすような迫力でギービヒ家の家臣らを演じた。

 沼尻はハンペ演出には「他の演出家では起こらない効果」を呼び起こす力があると評価する。「稽古(けいこ)の時、歌手に『楽譜ではこう書かれている』という指導をする。しかも音楽と舞台上の動きに食い違いがなく、歌手が寝て歌うなど無理な姿勢を強いることもない」。その結果として「ハンペ演出を経験することで歌手は以前よりうまくなっている」のだという。

 さて、びわ湖リングの演出家は「姿を消す」ことに成功したのだろうか。答えは「ノー」だ。1日目の開始直前、ユーチューブのライブ配信を見ていたのは約9800人だったが20分程度で1万人を超え、多くの人が終演まで見続けた。固定カメラ、ドイツ語上演なのに日本語字幕もない中で、6時間近く鑑賞者を引きつけたのは、演奏と演出がもつパワーの証しにほかならない。

 筆者はこれから、ジークフリートの葬送行進曲を自発的に聴く機会が増えそうな予感がする。その時に思い浮かべるのは、びわ湖ホールの紗幕に投影された場面転換の映像になるだろう。

 最後にもう一つ、ハンペの印象的な言葉を紹介したい。「私に対して『あなたはモダンかコンベンショナル(伝統的)か』と聞く人は多いが、客席にいる人たちは今、この時代を生きている『モダンな人たち』である。今そこにいる客を笑わせたり泣かせたり興奮させたり感動させたりする。そのことがすべてモダンだ」

 ワーグナーが示す世界観と演出家の思想がマッチした舞台は、そのスタイルを問わず常に感動的なものだ。

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