ヒーローの謎、解明に没頭 力道山研究の第一人者 石田順一さん

ヒーローの謎、解明に没頭 力道山研究の第一人者 石田順一さん

石田順一さん=金沢市内で2021年7月14日午後0時6分、阿部弘賢撮影

 9歳の時にテレビで初めて見たプロレスラー、力道山に魅せられた。以来、半世紀以上にわたって試合記録や関係資料を集め、力道山にまつわる「謎」を見つけ、解き明かしてきた。そうした知見は専門雑誌での連載や書籍などにまとめられ、石田順一さん(68)=金沢市=は力道山研究の第一人者として知られるようになった。「力道山は戦後最大のスーパーヒーロー。プロレス界はもちろん、戦後日本の景気にも影響を与えた」と語る。

 1950年に相撲界を引退した力道山は日本にプロレスを「輸入」し、天性のスター性で戦後の復興で疲れる国民を元気づけた。63年に暴力団員に腹部を刺されたことが原因で急逝したため、実際にリングに上がる姿を見られたのはわずか2年ほど。しかし黒タイツ姿で得意の空手チョップを繰り出し、外国人レスラーを次々に倒す姿は幼い心にも強烈な印象を残した。

 最初は試合記録などを集めて手作りの冊子にまとめていたが、次第に当時の新聞記事を図書館などで探したり、試合の興行関係者らを訪ねて話を聞いたりするようになった。

 力道山が活躍した頃はプロレスがまだ黎明(れいめい)期だったこともあり、試合記録が未整理なものもあった。記録や資料をひもとくうちに、いくつもの疑問や謎が浮かび上がり、その解明に没頭した。

 例えば、58年8月の米ロサンゼルスでのインターナショナル選手権をかけた鉄人ルー・テーズとの一戦。勝敗や判定を巡って資料によって食い違いがあったが、国立国会図書館で現地邦字紙の当時の記事を見つけ出し、決着をつけた。また「世紀の一戦」といわれた、伝説の柔道家・木村政彦との戦い(54年12月)が壮絶な展開になった一因をファンの立場から考察し、力道山研究の集大成として発刊した「力道山対木村政彦戦はなぜ喧嘩(けんか)試合になったのか」(2015年)にまとめた。「力道山のけんか試合は間違いだったが、プロレスしかなかった力道山が勝ったおかげで、プロレスが今日まで生き残った」と評価する。

 こうした地道な資料収集と足を使った徹底した取材のスタイルは、力道山研究以外でも発揮された。

 今年、開設300年を迎えた金沢市の近江町市場の年史をまとめる編集委員長として、400ページ近い大著を完成させた。関係者や資料を求めて約5年間、市場内外を飛び回るうち、江戸期の鑑札(営業許可証)や幻のPRソングのテープ、姿を消した「魚市場」の標柱が写った写真など貴重な“お宝”を次々に発見。公的機関とは異なり、散逸しやすい民俗学的価値のある資料を丁寧に拾い集め、「金沢市民の台所」の歩みを色鮮やかに浮かび上がらせた。

 「自分が納得するまで調べるのは地道で大変な作業だが、新しい発見があると頑張れる。次のテーマが見つかればまた地道に取り組みたいね」。その好奇心はとどまるところを知らない。【阿部弘賢】

人物略歴 石田順一さん

 1952年、金沢市生まれ。金沢中央信用組合参与を務める。趣味は新聞スクラップづくり。自宅には興行用ポスターやパンフレット、入場券など貴重なプロレスの関連資料も。

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