投降し生きた3姉妹 同級生の記憶に涙 おばあとたどる沖縄戦の記憶

投降し生きた3姉妹 同級生の記憶に涙 おばあとたどる沖縄戦の記憶

旧日本軍の指示で陣地まで弾薬を運ばされた道に立つ大嶺節子=沖縄県中城村で2021年6月13日午後4時21分、宮城裕也撮影

 「おばあの話は長いよー」。沖縄県宜野湾市出身の私(記者)が太平洋戦争末期の沖縄戦の体験を聞こうと訪ねると、母方の「おばあ(祖母)」はそう切り出し、76年前の記憶をたどり始めた――。

 沖縄戦が始まる半年前の1944年秋ごろ、米軍の上陸に備え、日本軍は陣地構築を急いでいた。現在の北中城(きたなかぐすく)村に住んでいた当時14歳の大嶺節子(91)は、同じ集落の同級生らと共に弾薬運びに動員された。

 日本軍の部隊があった中城城(中城村など)から約10キロ先の嘉数(かかず)高台(宜野湾市)の陣地まで1日2往復、弾薬入りの木箱を2人がかりで運んだ。米軍機が見えると伏せ、艦砲(軍艦による砲撃)におびえながら歩を進めた。

 動員されて2日目の昼。一旦自宅に戻ると、育ての父に止められた。「子どもまで使うのは負け戦やくとぅ、やらさんどー」(負け戦だから、もう作業はさせない)。だが、その後も弾薬運搬を続けた同級生たちは沖縄本島南部まで連れて行かれ、戦闘に巻き込まれたと聞いた。苦労話にも笑いを交えて語っていたおばあだったが、同級生の名前を一人一人挙げると、「一緒に作業した人たちは誰も帰ってこなかった」と声を落とした。

 米軍が沖縄本島に上陸する直前の45年春、本島北部にある現在の名護市に身重だった19歳の姉、12歳の妹と避難。同じ集落の3世帯約10人と避難小屋で約3カ月暮らした。だが、食べ物が次第になくなり、毒があるソテツの実をバショウの葉に包んで1週間置いて口にした。「ウジがわいたら毒がないからウジを取って鍋で炊いて食べた」。他人の畑で芋を掘り、無人の家からみそや食べ物などを手当たり次第リュックに詰め込んだ。「とらないと生きていけないんだから」

 沖縄戦は6月23日に組織的戦闘が終結したとされるが、その後もおばあたちの避難生活は続いた。27日に姉が出産。「あんたたちは捕虜になりなさい」。避難先の近くまで米軍が迫る中、同居していた人たちはおばあたちを置いてさらに北へと逃げていった。栄養が足らずに泣き声を上げない赤ん坊を抱えた姉と、自分では歩けないほど弱り切った妹。「米軍の捕虜になれば戦車でひき殺される」と言われていたが、もはや投降するしか道はなかった。

 1日かけてたどり着いた米軍の駐屯地。米兵から分厚いチョコレートを渡されると、姉の制止も聞かずに口に入れた。「どうせ死ぬなら食べたことのないものを食べて死にたい」。不思議と気力が湧いた――。

 おばあがここまで戦争体験を語るのはおじい(祖父)以外には初めてという。同じ集落の同級生は半数が沖縄戦で命を落とした。同窓会の席で話題が少しでも戦争の話になると誰かが涙し、「これから楽しいことをして長生きするのだから戦争の話は禁句だよ」と言われて口をつぐんだ。

 私が「話を聞かせてほしい」と頼んだ時も、おばあは「私もできれば話したくないし思い出したくない」と渋った。それでも語ってくれた。「あの時は死ぬのが当たり前で、自分が生きているのが不思議なくらいさ。それほどつらい体験だけど、孫やひ孫たちに知ってもらって、これからの沖縄を考えてほしい」

   ◇

 どこにでもいる少女だった2人のおばあ。孫の私はその戦争体験に初めて向き合い、おばあたちがあの地上戦を生き抜いたのは奇跡としか言いようがないと感じた。どちらかが欠けても私は生まれていない。沖縄戦は「今」とつながっており、命や普段の暮らしは当たり前にあるものではないことを突きつけられた。

 おばあたちの記憶には欠落もあり、戦後76年がたって記憶の継承は容易ではないとも痛感した。だが、わずかな記憶ではあるが、残された史料などでつなぎ合わせることで、おばあたちが伝えたい教訓が浮かんできた。二度と戦争を繰り返さないために、おばあたちだけでなく、記者として少しでも多くの戦争体験者の記憶の断片を拾い集めていきたい。この夏、そう心に刻んだ。【宮城裕也、34歳】(敬称略)

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