近藤紘子さん 父「タニモト牧師」の背中追い 核なき世界への希望、若者に託す

近藤紘子さん 父「タニモト牧師」の背中追い 核なき世界への希望、若者に託す

自身が取り上げられた記事を手に体験を語る近藤紘子さん=兵庫県三木市で2020年9月17日、山田尚弘撮影

 核兵器廃絶への合言葉「ノーモア・ヒロシマ」は「広島の悲劇を世界のどの国にも再現させたくない」という日本人牧師の言葉から生まれ、世界に広まったと言われる。記録報道「2020ヒバクシャ」の8回目は、被爆者救済と平和運動に半生をささげたこの牧師を父に持ち、葛藤を乗り越えて国内外で核廃絶を訴え続ける娘の歩みをたどる。

 生後8カ月の時に広島で被爆した近藤紘子(こうこ)さん(75)は「キヨシ・タニモト」の娘として、海外での方が有名かもしれない。米国のワシントン・ポスト紙にAP通信、英国のガーディアン紙にBBC放送……。被爆75年の夏、スペインやノルウェーなども含め10社を超えるメディアから取材が殺到した。コロナ禍のため、住まいでもある兵庫県三木市の三木志染(しじみ)教会と現地をウェブ会議システム「Zoom(ズーム)」で結んでのインタビューも受けた。

 広島で被爆した谷本清牧師(1909〜86年)は、惨状を克明に描いて米国中に衝撃を与えたピュリツァー賞作家、ジョン・ハーシーのルポルタージュ「ヒロシマ」に主人公の一人として登場する。原爆で両親を亡くした孤児を米国人が養育費や手紙で支える「精神養子縁組」を進め、顔などをやけどした「原爆乙女」の治療のために奔走した。

 しかし、娘の目には家族をないがしろにしているように映り、長い間、反発した。今年、近藤さんは原爆放射線の人体への影響を研究していた米原爆傷害調査委員会(ABCC)が作成した自身のカルテを取り寄せた。100枚を超える書類の中に66年前、娘の健康状態を問い合わせた父に担当医が「問題ない」と回答した手紙の控えがあった。「忙しい中、私のことも心配してくれていたんだ」。愛を再確認した。

 「父のようなことはできないけれど、歩みを受け継いでいきたい」。父の言葉「Person to person(人から人へ)」を胸に、世界に向けて語り続ける。

全米256都市を巡り平和の大切さ訴えた父

 75年前に広島に原爆が投下されてから2年半ほどたって撮影された1枚の家族写真がある。つぶらな瞳でこちらをじっと見つめる近藤紘子さん(75)は当時3歳。幼い弟を抱く父の谷本清牧師(1909〜86年)は、すでに米国で被爆者の代表的存在になっていた。きっかけは米国のピュリツァー賞作家、ジョン・ハーシーが46年に広島で取材し、ニューヨーカー誌に発表したルポ「ヒロシマ」だった。

 香川で8人きょうだいの末っ子として生まれた谷本牧師は関西学院大神学部を卒業後、米国のエモリー大学大学院に留学した。日米開戦を受けて41年に帰国。沖縄の教会を経て43年5月、広島流川教会に赴任した。2年後の8月6日、友人の荷物を疎開させるため訪れた爆心地から約3・2キロの己斐(こい)地区で被爆する。その時、生後8カ月だった近藤さんは爆心地から約1・1キロ、教会近くの牧師館にいた。建物の下敷きになったが母チサさんに抱かれていて無傷だった。

 妻子の無事を知った谷本牧師は教会近くに戻り、多くが避難した庭園で瀕死(ひんし)の人たちの救助を始める。火が迫る中、小舟で川の対岸へ何人も運び、水を飲ませた。夜が明けると助けたはずの人たちは息絶えていた。無力を嘆きつつ、5日間とどまって活動した。ハーシーはそんな谷本牧師ら6人の姿を通して惨状を伝え、「タニモト」の名前は一気に全米に広まった。

 米国の教会の招きで谷本牧師は48年9月に渡米する。約15カ月で31州、256都市を巡って582回講演し、被爆の実態と平和の大切さを訴えた。その間、被爆者を支援し、世界の平和を実現するための拠点「ヒロシマ・ピース・センター」の構想も膨らませる。いち早く協力を申し出たのはパール・バック。長編小説「大地」で知られ、後に米国に留学した近藤さんの「第二の母」とも言える存在になるノーベル文学賞作家だった。海を越えた支援が始まった。

平和運動の原点はエノラ・ゲイ副操縦士との出会い

 谷本牧師は日本にいても、原爆で両親を亡くした孤児や、顔などにひどいケロイドを負い「原爆乙女」と呼ばれた若い女性たちのために奔走した。「紘子は町内でただ一人生き残った赤ん坊。広島のため、世界の平和のために生きてほしい」と願い、出かける先に娘を連れて行くことも少なくなかった。原爆乙女の治療費を募るため、東京・銀座のデパートで三船敏郎や乙羽信子ら映画スターが自らサイン入りブロマイドを販売する催しをした時も一緒に上京した。被爆の記憶がない近藤さんは、教会に集まる孤児や心と体に傷を負った「お姉さん」たちと接する中で「原爆を落とした人は悪い人。いつか会ったら敵を討つ」と怒りや憎悪を募らせていった。

 復讐(ふくしゅう)のチャンスは小学5年生だった55年、最先端の整形治療を受けさせるため、父が原爆乙女25人を連れて渡米した際に訪れた。家族で人気テレビ番組「This is your life」に出演し、広島に原爆を投下したB29爆撃機エノラ・ゲイの副操縦士、ロバート・ルイス氏と対面する。にらみつける近藤さんの前で、ルイス氏は「おお神よ、我々は何ということをしてしまったのか」と搭乗日誌に書いたことを告白し涙した。「この人もずっと苦しんでいたんだ。憎むべき人はこの人じゃなかった」。ルイス氏の手にそっと触れると、大きく温かい手で握り返してくれた。「憎むべきは、核兵器や戦争そのものだと気付かせてくれた」。この出会いが平和運動の原点となった。

「原爆を忘れて生きる」と決意した過去を経て

 「あなた方一人一人が平和を作り出す人になって」。40年以上、日本の小中高生や大学生だけでなく、米国や中国でも呼び掛けてきた。でも、初めから原爆に向き合えたわけではない。

 中学生の時、家族にも言えないほど屈辱的な経験をした。原爆による放射線の人体への影響を研究していた広島市の米原爆傷害調査委員会(ABCC)を定期検査で訪れると、白い腰巻き1枚でステージに立たされ、ライトで照らされて観察された。涙があふれ「広島になんかいたくない。原爆を忘れて生きる」と決めた。

 キリスト教系の東京・桜美林高を出て米国へ。奨学金を受けながら短大で学び、アメリカン大へ編入する。しかし、原爆の影から逃れることはできなかった。米国人男性と婚約したが、被爆者と知った親族に反対されて破談になった。「いいなずけがいたけど、原爆でだめになった」と言っていた「お姉さん」の気持ちが少し分かった。帰国して東京の外資系企業にいた時、記録映画の助監督だった泰男さん(75)と知り合い74年に結婚。父に頼まれ、夫と広島へ移って父が設立したヒロシマ・ピース・センターの仕事を手伝い始めた。無神論者だった夫が洗礼を受けるほど、父の影響は大きかった。

 ただ、心の中にはずっと父への反発があった。小学4年生の時に開いた父の著書。被爆直後、妻子ががれきの中からはいでて生き延びたと分かっても、喜ぶどころか「牧師の妻なのに信者を放って逃げたのか」と腹が立ったとつづられていた。「こんなひどい人、お父さんじゃない」。幼い頃には、遊んでもらえず、さみしい思いもした。

 82年3月、72歳になった父は約40年務めた広島流川教会の牧師として最後の説教で打ち明けた。被爆して真っ先に浮かんだのは「娘はどうしただろうか、妻はどうしただろうか」という思いだった。牧師でありながら自分のエゴを優先し、助けを求める人々を見捨てて郊外から市の中心部へ走った。その悔いが平和運動へと駆り立てた、と。父の本心に触れて涙がこぼれた。「後を継ごう」と決意した。37歳の時だった。4年後に父は亡くなった。

 時に売名行為だと陰口をたたかれながらも信念を貫いた父。背中を追いかける娘の思いも着実に広がっている。

 モンゴメリー大教授のビンセント・イントンディさん(45)は近藤さんの母校アメリカン大の学生だった2005年、日本の学生と被爆地を巡るセミナーで近藤さんに出会い、心を動かされた。帰国後、人種差別や公民権運動だった研究テーマに核兵器も加えた。「2000回を超える核実験は、ほとんどが先住民や有色人種の土地であった」。差別意識をそこに見る。

 神戸市東灘区のインターナショナルスクール「カナディアン・アカデミー」で3年前から平和学習を担当するモニカ・クアヒハンセンさん(33)も近藤さんの話を聞いて広島を訪れた。「戦争の歴史を正しく知ることが平和な世界を作るために不可欠だ」と感じて米コロンビア大に進み、母校の歴史の教員に。「近藤さんに託されたバトンを次の世代に渡したい」と語る。

 16年5月、オバマ米大統領(当時)が広島を訪れ、スピーチで「原爆を落とした爆撃機のパイロットを許した女性がいた。自分が本当に嫌悪しているのは戦争そのものだと気付いたからだ」と言及した。近藤さんのことかは分からないが「伝えてきたことがオバマさんに伝わっていたのならうれしい」と振り返る。

 核兵器の保有や使用を禁じる核兵器禁止条約は批准国・地域が近く50に達し、発効する見通しだ。しかし、米国の「核の傘」に頼る日本は批准していない。「私の米国の友人たちは『日本が核兵器の恐ろしさを訴えないで誰が言うんだ』と言うの。世界に向かって核兵器はいらないとはっきり訴えてほしい。米国はそれで怒るような国ではないはず」

 今年、コロナ禍で日米の学生によるセミナーは中止になったものの、講演依頼は戻り始めた。父の代わりはできないが、きょうも精いっぱい語りかける。「『核のない世界』への希望をあなたたちに託したい。まかせたよ。伝えていってね」【文・柴山雄太】

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 こんどう・こうこ 故・谷本清牧師の長女で弟妹が4人いる。広島の爆心地から約1.1キロで被爆した。行き場を失った子を海外の養父母に紹介する「国際養子縁組」にも取り組み、自身も娘2人を養子に迎えた。兵庫県三木市在住。

ルポ「ヒロシマ」掲載号は発行日に30万部売り切り 全米の新聞にも転載

 ジョン・ハーシー(1914〜93年)は米国のジャーナリストで作家。イタリアでの従軍経験を基にした小説「アダノの鐘」でピュリツァー賞を受賞した。46年5月に米誌「ライフ」「ニューヨーカー」の特派員として広島を訪れ3週間取材。焦土の中で生き延びた谷本清牧師や医師、ドイツ人神父ら6人の被爆者の姿を描いた長編ルポ「ヒロシマ」を8月のニューヨーカー誌に発表した。

 発禁処分になるのを避けるため、連載にせず1冊全部をヒロシマにあてた異例の号は発行日に30万部を売り切り、後に谷本牧師と交流する世界的物理学者、アインシュタインは2000部も買って知人に配ったという。全米の新聞に転載され、本はベストセラーに。「原爆は戦争を早く終結させるために必要だった」という意見に対し「使用は誤り」との声が上がり、谷本牧師の元には米国の読者から数百通の手紙が寄せられた。

 日本では当時、連合国軍総司令部(GHQ)が占領政策の支障になるような報道を規制しており、被爆の実態はあまり知られていなかった。谷本牧師らが翻訳し、日本で出版されたのは49年だった。

 米国では社会科の副読本としても使われ、99年には「20世紀アメリカジャーナリズムの業績トップ100」で1位に選ばれた。ハーシーは85年、広島を39年ぶりに再訪して改めて6人を取材し「ヒロシマ その後」をニューヨーカー誌で発表した。

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