元カープの木下富雄さん 「親であり兄」の古葉竹識さんを語る

元カープの木下富雄さん 「親であり兄」の古葉竹識さんを語る

1980年の日本シリーズ第7戦で近鉄を破って優勝し、胴上げされる古葉竹識監督=広島市民球場で

 「私の体の中に、野球を植え付けたのは古葉さんです。野球に対する姿勢も、プロとしての技術も古葉さんが作り上げてくれた」。広島カープの黄金期を築いた元監督の古葉竹識(たけし)さん(85)が亡くなった。黄金期を支えた元選手の野球解説者で、広島市内で焼き鳥店も営む木下富雄さん(70)が、古葉さんの死を悼みつつ、思い出を語ってくれた。

「他人が気付かない所までお見通し」

 木下さんは1973年にドラフト1位指名され74年入団、トレードマークの口ひげと「パンチョ」の愛称で市民に愛され、87年に引退した。古葉さんについて「厳しい親であり、優しい兄貴だった。人間的にも素晴らしい監督だった」と振り返った。ベンチではいつも立ったまま采配。調子が悪い選手が少しでも良くなると、すかさず「いいじゃないか」と声をかけたという。「一番選手が見えやすい所から見て、他人が気付かない所までお見通し」。野球に厳しい反面、繊細な目で人を包み込む指導力に、何度も助けられたという。

 当時は勝利への闘志で選手らもいつもピリピリしており、チャンスを逃す選手がいれば「くそっ」と選手同士でも声が飛んだが、それをまとめるのも古葉さんだった。

 球団初の日本一を達成した79年の日本シリーズは、近鉄を相手に敵地での2連敗で始まった。直後に古葉さんは「俺たちは7戦まで行って、勝つんだ」と、檄(げき)を飛ばしたという。選手は奮起し、地元に帰った第3戦から3連勝、再び敵地の第6戦で負けて3勝3敗となった。第7戦は1点リードの九回裏無死満塁のピンチを伝説の「江夏の21球」でしのぎ、初の日本一に輝いた。

 古葉さんは木下さんに「おまえは肩が強いから何でもできる」と言葉をかけ、木下さんは内野も外野もこなすユーティリティー選手として黄金期を支えた。監督引退後、古葉さんは木下さんにこっそり、実は他球団から誘いがあったと明かした。「木下をそんな使い方するなら、うちで」と引き合いがあったが、古葉さんは木下さんを離さなかった。古葉さんは「おまえの給料を抑えていたのはワシだな」と、ちゃめっ気たっぷりに笑ったという。

 毎年古葉さんと会っていたが、新型コロナ禍で昨年と今年は会えていなかった中の訃報だった。「今もふらっと現れるような気しかしない」と悼んだ。【山本尚美】

関連記事(外部サイト)