多様な地域性と文化が共存した92年バルセロナ大会

多様な地域性と文化が共存した92年バルセロナ大会

92年バルセロナ五輪競泳女子200メートル平泳ぎで金メダルを獲得した岩崎恭子

<国と五輪〜オリンピックがもたらしたもの〜>

都市や国家が、なぜオリンピック(五輪)を開催するのか。その国の政治や社会に五輪が必要だからだ。大会が開かれた時代を振り返ると、アスリートの姿には映らない、国と五輪の関係が見えてくる。まずは1992年(平4)のバルセロナ大会について、愛知県立大の奥野良知教授と考える。

この年のスペインは、お祭り騒ぎだったという。長い停滞の時期を経て、「遅れた小国」となっていた、かつての「世界帝国」が、久しぶりに国際的な注目を浴びた年だ。コロンブスのアメリカ新大陸発見から500年という節目。バルセロナでは五輪、万博が開かれたセビリアと首都マドリード間に高速鉄道が開業した。92年は、まさに「スペイン・イヤー」だった。

奥野教授 カタルーニャ州の州都バルセロナは、地中海に面したスペイン東部の港町で、同国第2の都市にして経済の中心地です。今は欧州屈指の国際観光都市として知られます(※1)。サグラダ・ファミリアで知られる建築家のガウディら世界的な芸術家を多数輩出した芸術の都でもある(※2)。カタルーニャは、18世紀にスペイン王国内で保持していた国家としての地位を失った。以後、従属、弾圧を受けてきただけに、常に自分たちのことは自分たちで決めることを強く望む自治、独立の気風が強い地域です。

スペインでは、39年から続いたフランコ独裁政権が75年に倒れ、86年には現欧州連合(EU)に加盟。欧州の先進国に追いつこうと、民主化、近代化を図っていた。カタルーニャは78年制定の自治憲章で自治を回復。86年の国際オリンピック委員会(IOC)総会で、サマランチIOC会長(※3)の故郷、バルセロナでの五輪開催が決まった。

奥野教授 フランコ時代、カタルーニャ語が禁じられるなど、自治を奪われていたカタルーニャの人たちは、78年の自治憲章で自治州として一応の自治権を復活しました。長い従属、弾圧の時代を経ての五輪開催を、市民はとても歓迎し、こぞってボランティアに応募しました。

大会では英仏スペイン語と並び、カタルーニャ語が公用語になった。開会式ではカタルーニャ「国歌」が演奏され、街には州旗が掲げられた。開催都市の地域性が強く出た大会だった。

奥野教授 当時、スペイン政府は、五輪によって「独裁」「発展途上国」のイメージをぬぐいたいと考えていた。カタルーニャにとっては、その存在を世界にアピールする絶好の機会だった。国王、カルロス1世は、五輪の開会式でカタルーニャ「国歌」を市民が泣きながら歌っているのを横目に、隣席の人とおしゃべりしていた。その後、スペイン国歌が流れると背筋を伸ばす。そんな光景がテレビを通じて世界に流れました。独裁政権の名残もあり、五輪のカタルーニャ色への反感もあったが、当時は民主化から日も浅く、反感を露骨に表明できる時代状況でもなかったのです。

当時のマラガイ・バルセロナ市長は「モンジュイックの丘」(※4)での開会式で「バルセロナは今日、あなた方の市です。カタルーニャ、スペインを、広大な中南米を、そして特に我々の偉大な祖国である欧州を代表している市です」と述べた。

奥野教授 マラガイは、マドリードもバルセロナも、違いを認めながら、スペインという国で同居するという立場でした。五輪でカタルーニャ色を出しつつも、多様性を認め合わなければ、200年以上続くカタルーニャ・スペイン問題は解決しないと考えていたのです。旧植民地、欧州、スペイン、カタルーニャ、バルセロナ。市長はグローバルとローカルをバランスよく意識していました。

多様な歴史や文化を持つ多様な地域が形成するスペイン。そんな姿を世界に発信したスペインだが、00年代に入り、保守のスペイン・ナショナリズム政党が、絶対過半数を得て政権を獲得。これに対抗して、バルセロナ市長から州政府首相となったマラガイが主導し、自治権の足元を固めるために「新自治憲章」を作ったが、10年、憲法裁による違憲判決を受けた。以降、独立運動が急速に拡大。住民投票で、警察の暴力を受けながらも独立賛成派が圧倒的に勝利し、中央政府との対立は深刻化した。17年当時のプッチダモン州首相はベルギーに亡命。中央との緊張は現在も続いている。

奥野教授 92年ごろのカタルーニャの人々は、多様な政治的、文化的アイデンティティーを持つ地域や人々が共存する国になっていくのだろう、と希望を持っていた。だが「スペインはひとつ」「強いスペイン」を目指す保守政権が中央集権化を進める中で、緊張が高まっていった。30年前にマラガイ市長が述べたように、ひとつの国に多様な地域性や文化が共存する形が理想でしょう。バルセロナ五輪は、その理想を実現した意味で、とても意義ある大会だったと思います。【秋山惣一郎】

※1 バルセロナと観光 工場や荒れた家屋が並ぶ工業地帯だったバルセロナは、五輪を機に道路整備や空港の拡張、クルーズ船に対応する港湾改修など、観光都市としての基盤が整えられた。スペイン政府観光局のマジ・カステルトルツ局長は「独自の文化、芸術を前面に出す『都市観光』を推進した。闘牛やフラメンコ、海と太陽といった、従来のスペイン観光のイメージを打破した」と話す。19年のバルセロナ市の観光客は約3千万人。宿泊日数は90年比でおよそ5倍に増えている。一方で、近年は観光客の過多が大きな問題になっている。

※2 バルセロナと芸術 古くから商工業が栄えたバルセロナでは19世紀、産業革命を背景に財を成した起業家がパトロンとなり、ムダルニズマ(モダニズム)芸術が花開いた。建築家、ガウディが手がけた教会「サグラダ・ファミリア」は、その代表的な建築。1882年に建設が始まり、現在も工事が続いている。20世紀には、ピカソやミロ、ダリら、バルセロナ出身の芸術家が国際的な評価を得た。五輪を機に芸術面での名声も高まった。

※3 サマランチ会長(ジュアン・アントニ・サマランク) 80年に第7代IOC会長に就任し、01年まで務めた。バルセロナの経済人だが、フランコ独裁政権の要職にもあったため、カタルーニャの人々は、複雑な思いを持っていると言われる。会長在任中は、プロの参加を解禁したほか、野球やトライアスロンなど競技数の増加や商業化路線を推進した。

※4 モンジュイックの丘 36年、バルセロナでは、ナチス政権のドイツ・ベルリン五輪に対抗して、反ファシズムの人民五輪が予定された。モンジュイックの丘は、そのメイン会場となるはずだった。だが、スペイン内戦によって中止に追い込まれた。人民五輪の名誉委員長だったカタルーニャ自治州のクンパンチ首相は国外へ逃亡したものの、ナチス占領下のフランスで捕らえられ、モンジュイックの丘で処刑された。

奥野良知(おくの・よしとも) 65年、石川県生まれ。愛知県立大外国語学部教授。専門はカタルーニャ地域研究、近現代カタルーニャ史。編著に「地域から国民国家を問い直す」「カタルーニャを知るための50章」など。