社屋を失った震災から1年で年商10億! 絶望の淵で改心した男の“社員を叱らずワクワクさせる”経営とは?

社屋を失った震災から1年で年商10億! 絶望の淵で改心した男の“社員を叱らずワクワクさせる”経営とは?

福島県伊達市にあるナプロアースの本社

2011年3月11日の地震と津波で生活を根こそぎ奪われ、家族も失った人は数知れない。その後の原発爆発事故でも、多くの人が避難生活を余儀なくされ、仕事も故郷も失った。深い悲しみと絶望――その中だからこそ経験した人の温かさと強さ。

3.11を機に人生観をガラリと変えた人は少なくない。福島県伊達市で自動車のリサイクル業を営む株式会社ナプロアースの池本篤社長もそのひとりだ(前編記事参照)。

地震の直後、池本社長は海沿いの国道6号線を車で北上していた。ナプロフクシマ(前身の会社)の販売店舗である「ホットガレージ」(旧・小高町。現・南相馬市小高区)が強震で店内が散乱状態になったとの連絡を受け、視察に向かっていたのだ。ふと海を見ると「え、野焼きか?」と思った。

津波からは無数の細かい黒い埃が沸き上がる。それが煙に見えた。だが次の瞬間、「津波だ!」と悟ると、右に急ハンドルを切り、山道を上った。津波を知らない幾台もの車が山道から6号線に下ろうとしている。池本社長は身振り手振りで「行くな!」と伝えたが通じず、それらの車は津波に飲まれた。そして、たどり着いた高台から「ホットガレージ」が津波に飲まれるのを目にする。

すぐに店長に電話したが通じない。まさか…。胸に後悔がよぎった。店長は日頃から叱責(しっせき)を浴びせていた社員だった。

「なぜ叱ってしまったのか。なぜ優しい言葉をかけてあげられなかったのか。もしこのまま亡くなっていたとしたら、私は自分の冷たい態度を一生後悔すると思ったんです」

だからこそ、その店長の無事が確認された時、心から安堵(あんど)したという。この経験が後の「絶対に社員を尊重する会社を作ろう」との思いに繋がる。

とはいえ、震災直後にそれをじっくり考える余裕はない。翌12日には原発が水素爆発し、それによる避難指示で原発からわずか5キロ先にあった本社、そして20キロ圏内にあったホットガレージを失うことになる。

池本社長は「会社も自分ももうダメか」と悩みに悩んだ。職場がなくなることで収入はゼロになる。社員の多くが家族ごと県外避難した。会社の借金が数億円残っていたが、社長の個人保証だったため、会社が潰れると同時に自分自身も潰れる…。どうしたらいいんだ。これが人生二度目のピンチだった。

そんな池本社長を立ち直らせたのは、同じ被災者だった。

避難先から駆けつけた少数の社員とで「会社のことは後回し。まずはボランティア活動だ」と、津波に押し流されて海岸沿いに散乱している車両の片づけに取り掛かった。さらに、全国の同業者から届いたガソリンや飲料水などの支援物資を役所や各地に届けることにも奔走するのだが、どこにいっても生活苦に喘(あえ)ぎながらも必死に生活を立て直そうとする人たちがいた。

社員の中にも会社の再起を願い、「私はナプロに永久就職したい。みんなで笑って会いたい。1日も早く」との声をSNSで発信する人もいたそうだ。

また、ボールペンの1本もなくなった自分たちに食料や生活必需品の支援をしてくれたのは、かつて取引額の大小だけで付き合いを絶った協力会社だった。池本社長は深い感謝と同時に心ない付き合いをしていたことを恥じた。

被災者の生きようとする姿、社員の復帰を願う声、そして協力会社の支援。これらの姿や声に「会社を立て直そう。福島から逃げない」と決意する。

「やはり一番大きかったのが、 こんな自分と一緒に働きたいという社員がいることでした。実は、岩手県で再起しようかとも考えましたが、それだと家族ごとの引っ越しになるので社員はついてこない。少ないながらも一緒に働きたいという社員と再起するには『福島から逃げない』という選択しかなかったんです」

同時に15年前の創業時、初対面の自分に差し伸べられた多くの支援も思い出した(前編参照)。「15年経って思ったんです。あれは偶然なんかじゃない。私に『何かをやれ』という使命だったんだって」

やろう! 悩みが消えると、すぐに動いた。まずは新しい社屋建設だ。幸いにも伊達市梁川(やながわ)町のやながわ工業団地に格安の空き事務所と倉庫が見つかった。数ヵ月の準備を経て、2011年11月19日、震災関連の特別融資制度を利用し、ナプロアースと社名も変更して再スタートを切ることができた。その落成式での池本社長の挨拶は熱かった。

「今回の震災で皆々様から受けた恩は決して忘れません。もし、もう一度どこかで震災が起きた際には、真っ先に駆けつける企業になります。通常業務においても、福島をイキイキとさせ、皆様から感謝される会社を目指します」

原発事故での避難生活を強いられているため、3.11前に40人いた社員のうち集まったのは8人にとどまったが、この8人が池本社長に礼を述べた。

「社長。会社を再興させてくれてありがとうございます!」

このひと言に「あぁ、会社をやっててよかった」と感謝し、とにかく従業員を尊重する会社を作り上げようと改めて決意。再スタートを切った会社では、戻ってこれなかった8割の穴を埋めたのは車の“ク”の字も知らない約40人の新入社員だったが、迷いはなかった。3.11前とは真逆の経営をすると自身に誓っていたからだ。

「震災から再起までの数ヵ月間で、それまでの経営を180度変えると決めました。それまではいかに数字を上げるかに腐心し、社員を叱り飛ばす経営でしたが、再スタート以後は、どうすれば社員が『ここにいたい』と思える会社を作るか、さらに『我が子もここに入れたい』と思う会社を作るかを考え直したんです。

それに8割の社員が何も知らない新人である以上、ベテラン社員が指導に割ける時間は限られている。となると、導き出された答えは『社員がワクワクしながら自主的に理解し動く』ことでした」

では具体的にどうすれば社員がワクワクと自主的に動くのか? 池本社長は以下のことを実践した。

まず、トップがどういう会社を目指しているのかを明確にし、そのために何をしてほしいのかも明確にする。この会社理念に心から賛同する人に働いてもらうため、ホームページにはどういう人材を必要としているかも明記。就労した社員にはあれをやれこれをやれとの命令はしない。何をすべきかはすべてマニュアル化し、現場では先輩や上司からの最低限の指導と指示以外は「自主的に」働くことこそを求める。

そして、求める人材の基準は、能力よりも「心根」とした。

例えば、そのHPでは求める人材を「私たちと日本一の夢を共有できるひと」「笑顔が素敵なひと」「人が喜ぶ顔が好きなひと」「いつでもプラス思考なひと」など20項目で提示し、それとは逆に、応募を遠慮願う人材も「夢や情熱をもてない方」「自信なく卑下する方」「自分から挨拶ができない人」「自分の意見を持てない人、言えない人」などやはり20項目で提示。自分がこれに合致していると思う人だけに応募してほしいとのことだ。

また、一人前の人材を短期間で育てるために取り入れたのが、「目に見える」研修成果の導入である。

新人は最初の3ヵ月間でマスターすべき項目を開示されながら研修に臨むのだが、すべての項目において、ひとつが終了するごとに本人と上司とが確認して丸印をつけ、次の段階に進む。研修終了後に配置される部署でも同様で、仕事のすべての手順と基準をマニュアル化し、社員それぞれに自身の仕事の理解度や習熟度を視覚的に把握させることで“自主的に働く”ことを促すというシステムだ。

また、自身の生活を大切にするためにも残業は極力やらない。効率的に仕事をこなせば、残業にはならない。

再起にあたり、こういった新構想を明かした時、ベテラン社員からは「今までさんざんスパルタでやっておきながら、甘いのではないか!」との反発もあった。だが、池本社長は改革を断行。すると、再スタートからの1年で震災前には届かなかった売り上げ10億円をベテラン8人と新人40人で達成してしまった。

この結果に驚いたひとりが相浦(さうら)光二副社長だ。社員10人で売上げ年2億円程度の時代から、出社前には毎朝のように池本社長とサーフィンをしていたが、その当時はサーフィンの後に堤防に腰掛け、池本社長が「社員50人、売上10億が目標だ!」と言うのを耳にタコができるほどに聞かされていたという。

「その時は、ハイ、ハイと頷いて軽く流していました。私には想像すらできない規模の話でしたので。池本社長は本気でそれを考え、その時すでに頭の中で会社の将来のビジョンができていたのだと思います。今となっては本当に驚いています」

会社の売上げ増は喜ぶべきことだが、肝心の社内の雰囲気は変わったのだろうか? 相浦副社長は「震災後、池本社長の中で人に対する思いやりが大きく変化したのはそばにいても理解できる」と語った。特に、顧客だけではなく、いかに社員に楽しんで仕事を続けてもらえるかを必死になって模索している姿に尊敬の念を覚えるようになったという。

★完結編⇒社員を罵倒、数字がすべての“ひどい社長”はなぜ悪しき慣習を断ち切り『廃車ドットコム』を立ち上げたのか?

(取材・文/樫田秀樹)

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