京アニ放火殺人事件容疑者に主治医・上田敬博が伝えたこと「俺はおまえに向き合う。絶対に逃げるな」

京アニ事件の青葉真司被告の治療を担当した上田敬博医師が被告とのやり取りを明かす

記事まとめ

  • 上田敬博医師は京都アニメーション放火殺人事件の青葉真司被告の治療を担った
  • 京都第一赤十字病院の救命救急センター長から被告を引き受けて欲しいと言われたそう
  • 上田医師は青葉被告に「俺はおまえに向き合う。絶対に逃げるな」と伝えたと明かした

京アニ放火殺人事件容疑者に主治医・上田敬博が伝えたこと「俺はおまえに向き合う。絶対に逃げるな」

鳥取大学医学部附属病院救命救急センター教授の上田敬博(うえだ・たかひろ)が、2年前、あの患者と接した4ヶ月を語る

「どうせ死刑になる」――。全身の9割以上に深刻な火傷を負った男は、自らの命を救った主治医にそう言い放った。36人もの尊い命を奪った、京都アニメーション放火殺人事件の容疑者である。その困難な治療を担った上田敬博(うえだ・たかひろ)は、彼とどう向き合い、何を変えようとしたのか?

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■「もし来るとすれば"奴"かな」

火災2日後の2019年7月20日、花が供えられた京都アニメーション第1スタジオ。この日、上田は青葉容疑者を近畿大学病院へ搬送している

上田敬博がその事件を知ったのは、2019年7月18日昼のことだった。京都市伏見区の京都アニメーション第1スタジオに侵入した男が、バケツ2杯のガソリンを撒(ま)いて火を点(つ)けたという。

当時、上田は大阪府大阪狭山市にある近畿大学病院の救命救急センターに勤務していた。京都医療センターの旧知の医師から、近大では何人受け入れ可能かという問い合わせが入り、そこで上田は負傷者が出ていることを知った。

36人が死亡、33人が重軽傷を負った、京都アニメーション放火殺人事件である――。

重度の熱傷は上田の専門分野だ。負傷者は複数の病院に分散搬送されていた。大阪にも搬送されていると聞き、付近の病院に片っ端から電話をかけたが、この日、近大に負傷者が送られてくることはなかった。「まだ自分への信頼がないのだ」と、上田は少し落ち込んだという。

翌19日、日本熱傷学会からの依頼で、上田は負傷者が運び込まれた病院を視察。そのなかに京都第一赤十字病院があった。前年末、上田はここで広範囲熱傷治療について講演していた。

顔見知りになっていた同病院の救命救急センター長が、ひとりの患者を引き受けてほしい、と言った。その患者の容体は深刻で、治療できるのは上田ぐらいではないか、というのだ。

上田はこう振り返る。

「もし来るとすれば"奴"かな、という直感みたいなのはあった。まさか、というより、やっぱり、という感じでした」

奴とは、青葉真司容疑者(現在は被告)だ。全身火傷で意識不明の重体だった。

「健常な皮膚がほとんどなかった。これは助からないだろうなと思いました」

とにかく手を尽くすことだ。翌20日、ドクターヘリで近大病院へ搬送した。しかし――。

「情報が漏れていたみたいで、ドクターヘリの後をNHKのヘリコプターが追いかけてきた。そしてニュースで『大阪狭山市』と出してしまったんです」

この地域の大病院といえば近大しかない。担当医が上田であることもすぐに知れ渡った。取材陣が殺到し、重苦しい日々が始まることになった。

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上田は1971年に福岡市で生まれた。九州大学病院の勤務医だった父親が医院を開業するのに合わせて、一家は北九州市に移った。戦中生まれの父親は厳しく、塾や習い事の類いは一切不要という教育方針だった。

「そのせいにしたくないんですが、成績はひどかったです。小学校低学年のとき、かけ算の九九を暗記するじゃないですか。僕はクラスでビリだった。すべて覚えるまで教室に居残りで、『蛍の光』が流れるなか、泣きながら暗記していました」

6年生のとき、母親に連れられて小倉で開催された同志社大学のラグビーの試合を観戦した。

「ルールもわからないんですけれど、素人目で見ても(同志社大の)平尾誠二さんは格好良かったですね」

中学校に入るとラグビースクールに通い、高校でも続けた。ラグビーの経験は、上田の精神的支柱となっていく。

叔父、叔母も医者で、いとこたちも医学部に進んでいた。上田自身がはっきりと医師を志したのは、高校1年生のときだ。

「なんでだかわかりませんが、夜中に父の往診についていったんです。胆嚢(たんのう)がんの患者さんが痛くて眠れないというので、深夜3時に父が鎮痛剤を打った。僕は眠いし、もう帰りたい。ところが父は帰ろうとしない。なぜかと訊(たず)ねると、『薬が効いて患者が休めるようになるのを確認しなければ、来た意味がない』って」

その言葉を聞いて、自分も患者に寄り添える医師になりたいと思った。

しかし、受験の壁は厚かった。九州大学出身の父親には国立大学信仰があった。国立の医学部、できれば九州大学に進学しろという。九州大学は最難関校のひとつである。結局、3年間の浪人生活の末、近畿大学医学部に進むことになった。

授業料が高額な私立大学の医学部だ。周りの学生は外車に乗り、高級ブランドの服を身につけている者も多かった。そんな同級生たちを尻目に、上田は休暇中も研究室に入り浸った。医師になって父親に認めてもらいたいという一心だった。

「珍しい学生だって言われてました。ラグビーだけは社会人のクラブチームで続けてましたけど」

■阪神・淡路大震災で味わった無力感

1995年、阪神・淡路大震災が発生。近畿大学医学部2年生だった上田は被災者への医療支援ボランティアに参加。この経験が救命医療を志すきっかけとなった

95年1月、大学2年生のときに阪神・淡路大震災が起きた。上田は、定期的に被災者を訪れ、医療支援を行なうボランティアに参加した。そこで出会った60代の女性が忘れられない。

「彼女は震災で夫を亡くし、なぜ自分だけ生き残ったのだろうと自分を責めていました。ちゃんと見ておかないと危ないと、(医学生たちで)シフトを組んで彼女の家を訪問していた。でも、24時間見ることはできません。ある夜、手首を切って自殺してしまいました。結局、自分たちは何もできなかった。医療ライセンスがない自分たちは無能だ、ただの自己満足じゃないのかと自問自答しました」

大学卒業まで被災者訪問を続けた。卒業後は神戸市東灘区の東神戸病院を研修先に選んでいる。阪神・淡路大震災の際、最前線で奮闘していた病院だ。

「みんな熱かった。指導してくださった方は夜の11時、12時まで残って、『心電図の読み合わせをします』とか、そこから2時間もやるんです」

先輩医師の熱にあてられた上田は、月曜日に1週間分の下着を持って病院に行き、週末まで宿直室に泊まり込んだ。ひとりでも多くの救急患者を診察したかったのだ。

救命救急の現場では、患者やその家族の苦しみをダイレクトに受け止める。そのために精神的に追い込まれる医師も多い。

「そうなってしまう人は、やっぱり優しい人だと思うんです。僕はなんというか、割り切っています。そうしないと絶対続かないと思うから。もちろん、人の悲しみに接すれば、自分も悲しくはなる。でも、どこか理性で抑えている気がします」

上田がその境地に至ったのは、父親の死が理由だ。2001年、がんで亡くなっている。

「僕にとって父は越えられない壁で、なんとか父に認められたいから医学部に入って医者になって頑張ってきた。壁であり、憧れでもあった。父の死より悲しいことは今まで感じたことなくて。それ以来、すごく冷静というか、感情を殺す癖がついちゃっているのかもしれません」

父親が亡くなる前、上田は実家を継ぐ前提で九州に拠点を置いた時期もあった。しかし、父親にこう打ち明けられた。

「自分は、本当は大学に残って研究をやりたかった。もし自分のやりたいことがあるんやったら、それはやるべきや」

父親の死後、上田は救急医療に戻った。兵庫医科大学病院救命救急センターを経て、18年4月から近畿大学病院へ。そこで京都アニメーション放火殺人事件の容疑者――青葉真司と出会ったのだ。

■わずか8cm四方の焼け残った皮膚を培養

「まず思ったのは、この人を助けないといけないということでした。この人が死んだら、遺族は何が起こったのか知ることさえできない。無念しかないじゃないですか。だけど、助けられるような状態じゃない」

付き添ってきた京都府警の人間に「諦めてください。ご期待には応えられないと思います」と告げた上で、治療を開始した。

まず、焼けた皮膚を電気メスで剥(は)いだ。熱傷は深さによって3段階に分類される。T度は表皮、U度は真皮、そしてV度は皮下組織に至る熱傷だ。青葉はV度の熱傷を全身の9割以上に負っていた。

「V度になると皮膚が再生しない。真皮の中にある血管が焦げて、血流障害を起こしていた。血液が流れなければ組織は壊死(えし)する。壊死した組織が体についていると毒が回ってしまう」

そして、剥いだ箇所にコラーゲンなどでできた人工真皮を貼っていく。皮膚を剥ぐと体温が下がり心停止の恐れがある。そのため、手術室の温度は28℃に設定。青葉の体力低下を避けるため、手術は一日3時間まで。次の手術まで間隔を空けた。

「血圧と体温との戦いでした。下がったら手術を止める。僕たちはめちゃくちゃ暑い。3時間もやれば集中力が切れそうになる。ものすごく大変でした」

青葉は約180cm、約90kgと大柄だったこともあり、この手術は計4回、20日間を要した。

次に、真皮の上に表皮を貼る手術を行なう。通常、熱傷手術は「スキンバンク」に保存された他人の皮膚を移植するが、この事件では多数の負傷者がいるため、移植用皮膚が不足する事態は避けなければならない。

事件当時、青葉は腰にウエストポーチを巻いており、わずか8cm四方の皮膚が健常な状態で残っていた。上田はその皮膚を切り取り、培養する手法を採った。

「皮膚を培養液に漬けて増やしていく。この手術で難しいのは培養皮膚ができ上がるまで患者を生かしておくこと。それまでに死んでしまうことが多いんです」

青葉の治療を開始してから、上田は不眠症になった。2時間おきに目が覚めてしまう。そのたびに枕元のスマートフォンでニュースを確認した。

自分が眠っている間に容疑者死亡のニュースが流れているのではないかという強迫観念に取り憑(つ)かれていたのだ。病院の宿直室に寝泊まりしているときは、病室で生存を確認してから寝床に戻った。

「彼の夢や治療の夢は見ない。でも起きたとき、『悪い夢を見た』という感覚だけが残っているんです」

幸い、青葉は危うい時期を乗り越えることができた。そして、上田たちは培養表皮移植手術に入った。体の20%ずつ、5回に分けて手術を施していった。

■自分は「低の低」の人間だ、と青葉は言った

2020年4月から上田は鳥取県米子市にある鳥取大学医学部附属病院に入局。救命救急センターの教授として、地域医療の活性化に尽力している

青葉の意識が戻ったのは、2度目の表皮移植手術の前だった。喉の器官を切開して人工呼吸器をつなげているため、言葉は発せない。上田と目が合った青葉は小さく頷いた。

喉を塞(ふさ)ぎ、言葉を発することができるようになったのは事件から約3ヵ月後の10月半ばだ。

「最初はかすれ声しか出ない。しゃべり方を忘れているんです。『声を出してみ』と言ったら、『ああ』って。その後、声が出るようになったと泣いていた。そのとき、死ぬことを覚悟して事件を起こしたんじゃないんだなと思いました」

少しずつ、ふたりは言葉を交わすようになっていった。

「そのとき彼は、犠牲者はふたりだけだと思っていた。『ふたりも殺したからどうせ死刑になる』って言ったんです。僕は、『悪いことをやったという自覚があるんやったら、まずは自分がやった行為と向き合え』と言いました。『それから罪を償え、そのためにおまえを助ける。主治医である自分をしっかり見ろ。俺はおまえに向き合う。絶対に逃げるな、もう逃げられへんぞ』と」

意識したのは、正面からぶつかることだ。これはラグビーから学んだことだった。

「タックルに入るとき、斜めや横から入ると絶対に失敗するんです。一番いいのは真っ正面から行くこと。医療も同じで、なんかあったらとにかく正面からぶつかるしかない」

上田は毎日、7時半と19時の2回、青葉の話を聞いた。青葉は、自分は「低の低」の人間で、生きている価値がないと投げやりだった。

「彼は家庭的なネグレクトもあって、勉強ができなかった。それでも定時制高校を卒業して派遣の仕事についた。それがリーマン・ショックで突然解雇になった。それで、昔から好きだった小説のようなものを2年間かけて書いて応募した。しかし、はねられた。そのとき、食べていく術(すべ)がなくなったと感じたそうです。後から自分が書いたものと同じような内容の作品が出たと思い込んで、カッとなって事件を起こした。稚拙(ちせつ)なんです。ただ、誰かが奴の話を聞いてやれば、思いとどまったかもしれないと思いました」

容体が回復すると、青葉を転院させたほうがいいのではないかという声が病院内から上がった。犯罪者が入院していると悪評につながるというのだ。まだ転院できる状態ではないと上田は反対した。

青葉は、自分が厄介者扱いされていることに気づいていた。そして上田に、自分みたいな人間を治療してもなんのプラスにもならない、なぜ自分を守ってくれるのかと聞いた。

上田はこう答えた。

「目の前にいる患者を助けるのが僕らの仕事だ。バックグラウンドは関係ない。犯罪者でも政治家でも一緒や」

取り調べに堪えられる状態となり、11月中旬、青葉は京都第一赤十字病院に戻った。別れ際、上田は「おまえ、生きている価値がないって言っていたけど、俺と4ヵ月接して、少しは考えが変わったか」と問うた。

青葉はこう返した。

「変わらざるをえなかった。こんな『低の低』の自分にぶつかってくれる人が赤の他人でもいるんだって」

昨年4月から、上田は鳥取大学医学部附属病院救命救急センターの教授に就任し、地域の医療の整備や、医師や研修医、看護師らの指導に取り組んでいる。 

青葉の治療は一段落したが、上田の睡眠障害はいまだに完治していない。医師はときに患者の"毒"を飲み込まねばならない。上田もまたその後遺症を抱えているのだ。

生まれ変わっても医者になりますかと訊ねてみた。上田は少し首を捻(ひね)ってから「たぶん」と答えた。そして、「けっこう楽しいんですよ」と付け加えて笑った。はにかんだような笑顔だった。

●上田敬博(うえだ・たかひろ) 
1971年生まれ、福岡県福岡市出身。日本救急医学会救急科専門医・指導医。日本熱傷学会熱傷専門医。開業医だった父の影響で医師を志す。近畿大学医学部2年のときに阪神・淡路大震災が発生。被災者への医療支援を通じ、救命救急医療の道へ進む。兵庫医科大学病院に勤務していた2005年にはJR福知山線脱線事故の負傷者の治療を担当。その後、近畿大学病院に勤務し、19年の京都アニメーション放火殺人事件では容疑者(現・被告)の主治医を務めた。20年4月より鳥取大学医学部附属病院救命救急センター教授に就任。

取材・文/田崎健太 撮影/中村 治 写真/時事通信社

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