広島平和記念資料館から見えてくる「8月6日」と「平和」

広島平和記念資料館から見えてくる「8月6日」と「平和」

6年に及ぶ広島平和記念資料館館長を、今年3月末に退任された志賀賢治氏

「75年は草木も生えない」と言われた広島への原爆投下から、74年が過ぎた。中国地方最大の都市として119万の人口を擁し、駅前に高層ビルが建つ現在の広島市に、「戦争」の影は見えない。しかし平和記念公園には世界中から人々が訪れ、そこが「爆心地」であることに思いを馳せる。

その中心に建つ広島平和記念資料館がリニューアルされ、話題を呼んでいる。5年がかりのリニューアルにはどんな意味があり、資料館は未来に向けてどんな存在意義を持つのか。今年3月末まで、現場のリーダーとして「展示」について考えてきた同館前館長・志賀賢治氏に話を聞いた。

インタビュアーは、広島の戦後復興をリアルに描いたノンフィクション『平和の栖(すみか) 広島から続く道の先に』(集英社クリエイティブ発行)を7月に上梓した、弓狩匡純(ゆがり・まさずみ)氏。

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──今春、広島平和記念資料館本館がリニューアルオープンしましたね。

志賀 28年ぶりとなった大規模改修・改装を経て、東館は2年前に、本館は今年4月25日に一般公開されました。資料館には、これまでに遺族の方々から寄贈された原爆犠牲者の遺品など約2万点の被爆資料が収蔵されています。

──資料館の役割とはどういったものとお考えでしょうか。

志賀 「"もの"をして語らせる」ために、最適の環境を整えることが資料館の責務だと考えています。資料館では、「誰々の制服」「誰々の水筒」「どこにあった瓦」といったように所有者を特定し、"もの"の背後にあるストーリーを綿密に聞き取り記録・保管しています。ただ単に"もの"を展示するに留まらず、遺品の持ち主は誰で、どのような用途で使われ、どこにあったかを明らかにする「固有名詞のある展示」を行なってきました。

──なるほど。そういった匿名性を排し、遺品の持ち主の生きざまにまで踏み込んだ展示方法は、世界的に見ても極めて珍しいのではないでしょうか。

志賀 そうですね。寄贈される方が匿名を希望されれば、お預かりはしますが遺品の公開はしません。名称は"資料館"ですが、本質的な役割としては"博物館"と言って良いと思います。

──あくまでも被爆者の視点から"8月6日"を捉えるという方針の下、リニューアルされたそうですが。

志賀 10年以上も前から展示のあり方について議論を重ね、そのような結論に至りました。私自身も6年前に館長についた際、かつて『中國新聞』の論説委員であった金井利博氏が発した「原爆は威力として知られたか。人間的悲惨として知られたか」といった言葉が深く心に突き刺さり、これこそが館長として取り組むべき姿勢だと改めて認識したわけです。もちろん、核兵器や放射線に関する科学的な説明も大切なことは言うまでもありませんが、何よりも実際にあった出来事をそのまま伝えることが資料館の使命だと。

私は"後知恵"と言うのですが、そもそも8月6日の時点に限って言えば、誰ひとりとして投下されたものが核兵器であるとか放射線の影響がどうだとか知るよしもなかったわけです。何が何だかわからない中で被爆してしまった。初代館長を務めた長岡省吾氏は被爆翌日から瓦礫の収集を始めるわけですが、学術的な興味はあったにせよ、「なんてことをしてくれたんだ!」といったとてつもない怒りがその根底にあったはずです。

まずはあの日、ここにいた人たちの気持ちに近づける、観る方が皮膚感覚で当時の状況を感じられる、可能な範囲内で疑似体験をしていただけるような展示を心掛けようと努めました。

──具体的にはどのような変更がなされたのでしょうか。

志賀 例えば、改装前の本館入り口には、米科学観測機が広島市上空から撮影したキノコ雲の写真が掲げられていました。原爆は通常の空襲とは異なり、一瞬にして街を消し去り、人々の命を奪ってしまったため、被爆当日撮影された写真はわずか数葉しか残っていません。故に、その惨状を伝えるためには連合国軍が終戦後に撮影した写真に頼らざるを得なかった。

ですがリニューアル後は、爆心地から1、2キロの距離にあった自宅で被爆した当時10歳の藤井幸子さんの姿を捉えた、ほぼ等身大にまで引き延ばされた写真『焼け跡に立つ少女』が、来館者を迎えるスタイルへと改めました。

──つまり原爆を投下したB−29『エノラ・ゲイ』、"天空"からの視点ではなく、キノコ雲の下、"地上"でいったい何が起こっていたかを克明に伝えることにこだわられたということですね。

志賀 そういうことです。遺品を展示している本館をゆっくり観ていただけるように順路も変更しました。従来は、核兵器の危険性など学習コーナーを設けた東館を巡ってから本館に入る流れでしたが、資料館の肝である本館に移動する頃には時間が足りなくなった、疲れてしまったといった声を多数いただいていたものですから(笑)。

──その肝である本館には、被爆死した幼児の三輪車や弁当箱、手紙など子供たちの遺品を中心に計538点が展示されていますね。

志賀 これらの持ち主である500余名の人々にはそれぞれの人生があり、喜び、哀しみがあり、夢があった。死者数といった無機質な数字の羅列ではなく、顔の見える、声が聞こえる、体温の感じられる形にしたかったのです。

── 一方で、議論を呼んだ3体の被爆再現人形は撤去されましたね。

志賀 被爆者の方から「実際はあんなもんじゃなかった、もっと凄惨だった」といった批判も出るなど、難しい展示だったことは確かです。

──作りものではない遺品の展示を徹底されたわけですが、被爆者の平均年齢が82.65歳となり(2019年3月末現在。厚生労働省調べ)、被爆体験の風化が深刻化しているといった現状も考慮されてのことでしょうか。

志賀 おっしゃる通りですね。被爆者がいなくなれば、遺品や遺構といった"もの"を通してしか被爆の実相を知るすべはなくなってしまいます。どうやっても体験は引き継げません。あの日の臭い(死臭)や触感、手をとるとズルリと皮膚が剥(は)がれるなどといった感触を伝えることは当事者以外には到底不可能ですが、嘘をつかない"もの"を継承してゆく姿勢にブレがあってはならないと。

──これまで資料館にもさまざまな変遷があったということでしょうか。

志賀 資料館は、歴史の歪みを扱わざるを得ない現代史ミュージアムです。そのため、時として政治的な軋轢(あつれき)にさらされるおそれがあります。実際、開館の翌年、1956年には『原子力平和利用博覧会』が開かれ、被爆地の施設でありながらも米政府によって提供された実験用原子炉の実物大模型を並べ、放射性物質を操る「マジック・ハンド」の実演なども行なった苦い歴史があります。

──米国の公文書からも、遺品の展示は米国人に不快感を抱かせるため原子力の平和利用をアピールしたことが明らかですね。広島市もまた生き残りを賭け、原子力による産業発展といったバラ色の未来予想図を描くことに加担せざるを得なかった。

志賀 こうした圧力に屈することなく、"8月6日"を淡々とバランス良く伝え続けることに資料館の存在意義があります。平和運動や核廃絶をアピールする活動にしても、必ずしも広島でやらなければならないわけではない。やろうと思えば、どこでだってできるでしょう。資料館はそういった世情や思惑とは一線を画した施設でなければならない。

──広島を取り巻く国際情勢といえば、2016年5月に現職の米大統領(当時)として初めてバラク・オバマ氏が広島を訪問しましたね。あの日、志賀さんが資料館を案内されたわけですが。

志賀 あれ以来、確実に資料館を訪れる外国人旅行者は増えました。

──2018年度に資料館を訪れた外国人は43万4838人で、入館者全体に占める割合は約28.6%と過去最高を記録しています。

志賀 米国には長い間、被爆の実相など知る必要はない、といった判断があったように思います。被爆の実相を知ってしまうと当然、とんでもないことをしてしまったと誰もが思うわけですから。それが、国家元首である大統領自らが資料館に足を運んだことで、米国民の気持ちが「我々も見て、知ってもいいんだ」というように変わって来ました。

──大統領のスピーチに、原爆投下に対する謝罪の言葉がなかったといった批判も当時は見受けられましたが、拙著の取材でお話を伺った被爆者の大半は好意的に受け取っておられました。オバマ大統領の小さな一歩は、日米史における大きな一歩となり得る可能性を秘めているということですね。ところで、退任後初めて迎えられる8月6日はどのように過ごされる予定ですか。(※本インタビューは7月末収録)

志賀 広島の街を歩いてみたいですね、相生橋(あいおいばし)を渡ってみるとか。この30年余り、8時15分は毎年、平和記念公園内にいて業務に従事していましたから。私が子供の頃は、市内のサイレンや汽笛が一斉に鳴り響き、皆が立ち止まって黙祷していました。官庁や企業、銀行も閉まっていましたよ。開けていたところで、この日は社員や職員の多くが被爆死した親族や友人、同僚の法事で休みを取るため、仕事にならなかった。今の風景はどうなのか。市民がどのように過ごしているのかを見てみたい。

──「8月6日」をいかに後世に継承してゆくか、にも関わる"風景"ですね。

志賀 この広島にとって特別な時間をどう過ごすかが、この街のこれからの有り様に深く関わってくるように思います。被爆体験が年々風化してゆく中で、被爆地であるという当事者性を果たしてこれからの50年、100年保ってゆけるのかどうか。ひとりひとりの過ごし方を見直す必要があるのではないかと。

──それは、我々にとっても同じですね。8月6日、そして長崎に原爆が落とされた9日をどのように受け止め、原爆死没者慰霊碑に刻まれた「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」の志をいかに受け継いでいくか。世界で唯一の、戦時における被爆国としての覚悟、そして想像力が試されているように思います。本日はありがとうございました。

●弓狩匡純(ゆがり・まさずみ) 
作家・ジャーナリスト。1959年兵庫県生まれ。米テンプル大学卒業後、世界50ヶ国以上を訪れ、国際情勢、経済、文化からスポーツまで幅広い分野で取材・執筆活動を続ける。主な著書に『国のうた』『社歌』(共に文藝春秋)、『平和のバトン 広島の高校生たちが描いた8月6日の記憶』(くもん出版)など。

■『平和の栖(すみか) 広島から続く道の先に』
集英社クリエイティブ 2500円+税
広島の戦後復興のために闘った、有名・無名の勇者たち。
その姿を臨場感豊かに描いた、感動のノンフィクション!!
広島は、誰によって、どのようにして戦後復興を成し遂げてきたのか──。4年という歳月をかけ100人以上の人に会い、480ページ、注の数が444もある1冊の本にまとめた。文献と証言、現場取材を織り交ぜながら、知られざる歴史のドラマを掘り起こす。

構成・文/弓狩匡純

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