東京五輪バブルを前に消えゆく“左官“! 職人激減の業界で女性と若者の雇用も実現する「原田左官」が異色なワケ

東京五輪バブルを前に消えゆく“左官“! 職人激減の業界で女性と若者の雇用も実現する「原田左官」が異色なワケ

職人不足が深刻化している左官業界にあって、原田左官工業所では20〜30代の若者が主力として現場を支えている

ダボダボのニッカを履き、右手に持つコテを器用に操って壁土を塗り上げていくーービルや住宅の建設現場でそんな左官職人が働く姿を見かける機会はめっきり減った。

国土交通省の『建設工業施工統計調査報告(2014年実績)』によると、左官職人の人口は全国で約3万人。高度経済成長を支えた最盛期(1975年頃)の30万人からなんと、10分の1に激減している。

さらに、一般社団法人・建設経済研究所がまとめた“左官レポート”で、2017年1月にリリースされた最新号にはこうある。

『左官における60歳以上の就業者が占める割合は約40%、平均年齢は53.6歳で、建設技能労働者全体の平均年齢46.6歳を大きく上回っており、今後の就業者数の減少が懸念されている』

年齢階層別分布を示したグラフを見ると、建設労働者全体の場合は35〜39歳の山と、55〜64歳の山を頂点とするM字型カーブを描いているのに対し、左官の人口は山がひとつしかない。それも55〜64歳の頂点が極めて高い“トンガリ山”だ。

加えて、このデータは2010年の国勢調査を基にした統計調査なので“プラス7年”で考える必要がある。つまり、現在の左官職人の平均年齢はほぼ60歳ということになる。

このデータが何を意味するか? 一般社団法人 日本左官業組合連合会に加盟する左官業者の社長がこう話す。

「左官人口の山を形成する60代の職人が間もなく大量退職を迎え、このままいけば、左官職人の半数が消える…。日本の建築文化を支えてきた左官技能が消滅する恐れがあります」

農業、漁業、運送、外食など人材難が叫ばれる業界は少なくない。だが、左官業界の職人不足は今や危機的状況だ。

その理由は明白である。

「コストと工期がかかり、天候に左右され、出来栄えが職人の技量に左右される左官仕事は隅に追いやられ、外壁には工場で生産されたパネルや合板を、内壁には同じく工業製品の壁紙やビニールクロスを貼り付けるローコストな工法が主流になりました。

建築に占める左官工事の比率は現在1%で、最盛期の10%から大きく減っています。左官が仕上げる塗り壁は建築の工業化、効率化、経済性重視の流れの中で激減したのです。今では学生向けの設計図書からも左官の記述はなくなりました」

とはいえ、建設業界はすでに2020年の“東京五輪景気”真っ只中。ビルや商業施設の建設ラッシュで左官仕事も増えている現状ではあるが、その内容は補修工事や下地仕事が大半だという。

前出の社長はこの現状を「仕事はあるが、仕事の喜びはない」と嘆く。

「左官は本来、下地屋ではありません。仕上げのプロであるべきです。かつての左官は住宅やビルなどの外壁や内壁に漆喰やモルタル、壁土などを塗りあげる仕上げ工事が主流でした。職人は自分で塗り上げた壁を見て喜び、左官技能を養っていた。

しかし、今の左官仕事の多くは下地づくりがほとんど。左官は技能習得に10年かかると言われるが、仕上げ面が見えない仕事が主流になっているから職人は感性や目を養うことができず、左官技能の維持・継承が困難になってきています」

実は、記者は左官屋の息子だ。父親は大阪で会社を興し、大手ゼネコンの下請けとして、今でも大手商業施設の床塗りなどを請け負っている。だが、「会社を継げ」とはひと言も言われなかった。幼少の頃からニッカ姿で壁を塗る渋いオジサンたちに憧れを抱いていたものの、記者自身、継ぐ意志は持てなかった。

左官業とは受注産業である。元請けからの発注がなくなれば仕事はない。そして左官職人の多くは一人親方、つまりは個人事業主だ。いつ、仕事がなくなるかもわからない不安定な業界にあって、自分の身ひとつで家族を養っていかなければならない…。毎朝5時に家を出ていく父親の背中から感じた将来的な不安は重すぎた。

だが、東京・文京区千駄木に有限会社・原田左官工業所(以下、原田左官)という左官屋がある。1949年4月に創業、現在は創業者の孫にあたる3代目の原田宗亮(むねあき)社長が経営している。年齢は43歳、記者より5つ上だ。

原田左官は社員数50名弱の小さな会社だが、そのうち左官職人の数は38人。職人の年齢層は見習いも含めて10代が3人、20代と30代が12人ずつ、60代が6〜7人で、残り数名が40代と50代。平均年齢は34歳と左官全体の半分の若さである。しかも、同社は職人全員を正社員として雇い、なんと女性職人が8名いる。

「原田左官」と聞いて思い出す人も多いだろう。この会社は、“若者が定着する左官屋、女性職人の採用に熱心な左官屋”として数多くのメディアに取り上げられている。

原田社長の著書『新たな“プロ”の育て方〜なぜ左官屋で若者と女性が活躍できるのか』も最近刊行されたが、読ませていただいて心に湧き起こった思いがある。

若者と女性とベテラン職人をうまく共存させながら、都心の一等地にある流行りの飲食店やアパレルショップの内装仕上げを手掛け、左官屋に対する世間のイメージを一変させた原田社長が正直、羨(うらや)ましくなったのだ。若者や女性の目を引くのもわかる。そこには記者が抱いたような将来不安もほとんど感じられなかった。

“こんな会社だったら、もしかすると自分も…”。そう思った時、同じく左官の家系に生まれた原田社長に対して嫉妬に近い感情を向けていることに気づいた。

1974年に先代社長の父、宗彦氏の長男として、今も本店所在地となっている東京・北区田端に生まれた原田社長は、都内の4年制大学を卒業後、3年間は一般企業で営業マンとして働いている。左官を目指すなら美大か、総合大学でも建築学部が妥当だろうが在籍したのは経済学部。就職先も携帯電話の部品メーカーだった。

左官とは畑違いの環境に身を置いていた当時、こう思っていたという。

「中学生の頃、父親に仕事の手伝いをさせられて、“左官なんて絶対やらない”と思ったこともありましたが、その頃から父親は女性職人を雇い、マスコミもたくさん取材に来ていたから『普通の左官屋じゃないんだろうな』という印象を持っていました。

私も、父から『会社を継いでくれ』と言われたことはありません。でも、自分は長男でしたので、なんとなくいつかは継がなきゃいけないんだろうな、くらいには思っていたんです。その後、もし継ぐことになったとしても、世間知らずのまま職人の修行を積んだところで、この会社をさらに発展させることなんてできないだろうし、それなら別の世界を見たほうがいいと思って、進学先や就職先を選びました」

その後、部品メーカーを退職して原田左官に入社したのは2000年。先述した通り、住宅やビルの壁塗りは工業製品に取って替わり、左官工事の発注は激減していた時期である。そこに不安はなかったのか?

「仰る通り、受注産業である左官業は、大手ゼネコンとの付き合いがない限り、明日仕事があるかどうかわからない世界です。もちろん不安はありました。

でも、先程も話しましたが、1990年4月に父は社内に女性の左官チーム『原田左官レディース』を作り、その取り組みが注目されて世間から脚光を浴びました。私が中学生の頃です。でも、進路を選択しなければいけない20歳前後の時期になると、女性職人の存在は社内でも当たり前になっちゃって、マスコミに取り上げられる機会も会社として外部にPRすることもなくなっていました。

そこで、素人頭に思ったんです。左官職人が塗り上げた壁には、工業製品にはない手仕事ゆえの安らぎを感じることができるし、何より職人の仕事にはロマンがある。女性の存在を抜きにしても、かなりいいものがあるのにそれが知られていないのは“もったいないな”って」

記者が将来に不安しか感じなかった左官職人の背中から“夢とロマン”を感じ取った原田氏は入社後に現場経験を積み、後に管理部門に入って業務改善に取り組んだ後、2007年に3代目社長に就任する。

左官屋の経営者として実践してきたことは職人の社員化、左官現場のIT化、4年で一人前の職人にする育成プログラムの構築、さらに仕事を待つのではなく積極的に取りに行く“提案型左官”…と業界の常識を覆(くつがえ)すものばかりだ。一見、バラバラに見える取り組みも原田社長にとっては一本の線で繋がり、その先にはこんな思いがある。

「職人ひとりひとりが“夢とロマン”を持って仕事に取り組める環境を作り、これを守り抜くことで左官という伝統技術の継承・発展に貢献していく」

実際、原田左官が手掛ける現場に行ってみると、60歳を超えたベテランも入社1年目の若者も、子育て中のママも左官コテを手にして実に生き生きと働いていた。

では、原田社長はいかにこの土台を作り上げたのか?

★続編⇒「今の若者に“見て覚えろ!”は通用しない」 職人の世界に“モデリング”を導入、再生した原田左官の非常識

(取材・文/興山英雄、撮影/利根川幸秀)




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