なぜ「加藤の乱」は失敗したのか 小沢一郎氏が明かす真相

なぜ「加藤の乱」は失敗したのか 小沢一郎氏が明かす真相

不信任決議を前にした派閥総会で谷垣氏に止められる加藤氏(共同通信社)

 2000年11月に政界を揺るがせた「加藤の乱」。“平成おじさん”の小渕恵三氏の後継首相が、いわゆる「5人組」(*注)の会合で森喜朗氏に決まり、不透明な経緯から支持率が低迷。宏池会(加藤派)会長でポスト小渕の最有力候補だった加藤紘一は、森後継に不満を募らせ、野党が内閣不信任案提出の構えを見せると同調して「倒閣」を宣言したのだ。

【*注/小渕の入院後、官房長官の青木幹雄は「入院中の総理に後事を託された」と自ら首相臨時代理に就任すると、野中広務、森喜朗、亀井静香、村上正邦との5者会談で森を総裁に事実上決定した】

 加藤派(45人)と盟友の山崎拓率いる山崎派(19人)の半数でも賛成に回れば不信任案が可決する状況だったが、失敗に終わった。当時の政変劇の舞台裏を“壊し屋”の異名を取った小沢一郎氏がインタビューで明かした。

──乱の前、あなたは加藤、山崎と連絡を取っていた。

小沢:山崎さんとは会った。加藤さんが(倒閣と)言ったものだから、山崎さんも腹を決めて、「よし、行くか」となった。それで、山崎さんと会った時に「我々が本気で動いたら、協力してくれるか」と言うから、僕は「それはいいよ」と応じて、今度は加藤さんも含めて会おうという話になった。だけど、その後、なし。

──採決日まで。

小沢:「加藤は本当に腹を決めたのか」って僕は山崎さんに何度も電話した。そのたびに山崎さんは「大丈夫だ」「今度こそ大丈夫だ」と言っていたんだけど……。

──あの時、山崎派は一糸乱れず不信任案賛成に向けて行動した。

小沢:山崎さんはきちっと派をまとめていた。だけど、肝心の加藤さんの宏池会が駄目だった。宏池会の半分でも賛成に回れば(不信任案は)通っていた。やっぱり、リーダーがきちっとした強い意思を示さなければ。

──森内閣を総辞職に追い込んでいたら、第二の細川(護熙)政権ができていたか。

小沢:細川内閣より強い政権ができていたでしょう。細川さんは自民党の外にいた人だけど、加藤さんは中にいたから衝撃は大きい。自民党から40〜50人出て、プラス野党だから、自民党は完全に崩壊したでしょう。

──当然、加藤総理。

小沢:そう、総理になる。それなのに、止められて泣いたりしちゃうから。

──あなたが1993年に宮澤内閣不信任案を成立させた時との違いはどこにあったか。

小沢:それは、加藤さんの意思の弱さと、(一緒に行動する仲間と)それだけの人間関係をつくってなかったということでしょう。

 あのとき、加藤さんが断固、「俺はやるんだ」と言っていれば、少なくとも一緒に行動する宏池会の半分は与党になれたわけです。そうすれば、(一時的に派閥の人数は減っても)また絶対強くなる。いざというときの決断ができない人は事を成せません。

〈加藤の乱では「YKKトリオ」も対応が割れた。加藤と行動をともにした山崎とは対照的に、森派会長でもあった小泉純一郎は「友情より派閥」を選び、反乱切り崩しの先頭に立った。この功績で小泉にチャンスが巡ってくる〉

※文中一部敬称略

●聞き手/武冨薫(ジャーナリスト)

※週刊ポスト2019年5月17・24日号

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