京アニ事件から考察、心神喪失者への「人間観」のあり方

京アニ事件から考察、心神喪失者への「人間観」のあり方

放火された京都アニメーション第一スタジオ(写真/時事通信フォト)

 凶悪な事件の容疑者に「精神科への通院歴あり」と報じられると、果たしてこの人物に罪が問えるのかという問題が浮上する。刑法では心神喪失者について39条に規定があるが、いったいどんな人間だと考えればよいのか。京都アニメーション放火事件から、評論家の呉智英氏が心神喪失と法律が定める人間について考えた。

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 京都アニメーションの大惨事に、日本中から強い関心と怒りの声が挙がっている。そのうちの一つが、現時点で死者三十五人、負傷者三十三人もの被害者を出しながら、容疑者の青葉真司はなぜ手厚い治療を受けているのか、という批判だ。しかし、これは間違っている。青葉への治療は、事件の全容解明のために必要であり、彼に賛同し支援しているわけではない。

 とはいえ、そういった怒りの声が出るのは、今後の捜査、起訴、判決への懸念が、誰の脳裏にも浮かぶからだ。心神喪失により無罪となる可能性がありうるのだ。

 この問題は、類似の事件が起きるたびに浮上してくるのだが、本質的な議論に進まないまま、うやむやになってしまう。

 心神喪失とは、精神障害によって善悪の判断や意志能力を欠くことだ。心神喪失者は、社会的・法律的行動を取ることのできる一般人の枠を外れた「埒外の人」である。これを法律は罰しえない。

 法律は、法を犯した人を罰する。人を殺せば殺人罪に問われる。しかし、海で泳いでいた人が溺れて死んだ場合、海を刑務所にぶち込んだり死刑にすることはできない。海は「人」ではなく「物」だからである。山から岩が落ちてきて人が圧死した場合も同じ。行政当局の管理責任を問うことはありうるが、海や岩には何の責任もない。海や岩に善悪の判断能力や意志能力はないからだ。

 それなら、心神喪失者は海や岩と同じ「物」だとしていいのだろうか。当然、違うという意見が出るだろう。なぜならば、心神喪失者は人であって物ではないからだ、と。心神喪失者は人間としての遺伝子を持ち、年齢や体質などの条件がよければ子供を作ることができる。つまり、人間の同胞なのだ。

 では、同胞ではない人間がどこかにいた場合は、どうか。原人・猿人の生き残りが、ジャングルかヒマラヤ山地に住んでいる可能性は否定できない。ネアンデルタール人は何万年も前に現生人類と交雑し、我々の遺伝子にネアンデルタール人の遺伝子が混じっている、という研究も最近出てきた。そうであれば、ネアンデルタール人は我々の同胞である。

 だが、五十万年前に生きていた北京原人や百七十万年前に生きていたジャワ原人は、現生人類との交雑は確認されていない。この人たちの生き残りが発見された場合、人間の同胞としていいのだろうか。この人たちが石斧で人間を殴り殺した時、「人」だから有罪にするのか「物」だから罪を問わないのか。

 我々と同等か、あるいはもっと高度の知能や判断力を持つ宇宙人が地球に来た場合は、どうか。彼らが光線銃で人を殺した場合、宇宙「人」だから裁判に掛け、刑務所に入れることができるのか、あくまでも宇宙人という生「物」なのだから責任はないとするのか。

 私は冗談を言っているのではない。法の根本にある「人間観」に矛盾や限界や亀裂はないか、と問うているのだ。

●くれ・ともふさ/1946年生まれ。日本マンガ学会前会長。近著に本連載をまとめた『日本衆愚社会』(小学館新書)。

※週刊ポスト2019年8月16・23日号

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