許永中氏の独占告白 今明かされる「かくれんぼ生活」の実態

許永中氏の独占告白 今明かされる「かくれんぼ生活」の実態

「戦後最大のフィクサー」が独占告白

 戦後日本の政財界には、「フィクサー」と呼ばれる男たちが裏で蠢いていた。だが、この男はスケールが違う。イトマン事件、石橋産業事件など名だたるバブル経済事件でその名が取り沙汰された許永中は、政財界から巨大商社、銀行、メディア、そして闇社会まで、あらゆる世界で隠然たる力を持ち、魑魅魍魎の間を縦横無尽に駆け抜けた。

 許永中氏(72)は、いかにして「戦後最大のフィクサー」となったのか。財界人との交流の裏にあった在日人脈、そして社会を騒然とさせた「保釈中の失踪」について、初めて明かした。

 * * *
 慰安婦問題、徴用工に輸出規制と、今日の日韓関係は戦後最悪といっていいでしょう。そこには政治的意図もありますが、反日嫌韓を煽られて最もつらい思いをしているのは誰か。それは在日韓国・朝鮮人です。双方の悪意がぶつかる接点に立たされ、理不尽な怒りを向けられることもある。日本で生まれながら日本人扱いされず、母国に帰っても韓国人とはみなされない。歴史に翻弄され続ける孤独な存在です。

 しかし、日韓の“狭間”で生きてきた我々在日だからこそできることも、またある。戦後日本で在日がどのように生きて、これから何を成せるのか。私の半生を語ることで、それが伝わればと願っています。

〈7月初旬、韓国・ソウルのホテルの一室で口を開いた男性は、在日韓国人実業家の許永中氏。1991年にイトマン事件、2000年に石橋産業事件(いずれも後述)で逮捕、有罪判決を受けた、「戦後最大のフィクサー」と呼ばれた人物である。

 両事件で計13年の懲役刑が確定した許氏は、2005年に黒羽刑務所(栃木県)に収監されるも、2012年に母国・韓国での服役を希望し、ソウル南部矯導所(刑務所)に移送。翌2013年9月に仮釈放され、いまはソウル市内で家族と暮らしている。

 許氏の存在は、日本の政財界にとって“忘れたい過去”といえるかもしれない。イトマン事件や石橋産業事件では、数々の大物政治家や財界人の関与が取り沙汰された。彼らを繋ぎ、暗躍したとされる許氏に多くの責任をかぶせ、事件に蓋をした側面もある。「すべての事件は、私の“生い立ち”を抜きにして語れない」と語る許氏の言葉には、強い意志がこもる。

 令和という時代を迎えたいま、昭和、平成の犯罪史に残る経済事件、そしてその後の運命について語ることは、「在日として生きた証」を刻み残す自らの使命である──そう前置きして、許氏は語り始めた〉

◆貧困の土地で培われた人脈

 大阪市大淀区中津(現・北区)。私の人生は、この地から始まりました。大阪駅の北側は、今でこそ高層ビル群が建ち並ぶ近代的な街並みですが、かつては広大な貨物駅や場外馬券場が広がる味気のない土地でした。煤けたトタン屋根の木造家屋が密集する。私が生まれた当時、中津はすり鉢の底のような極貧のスラムでした。差別される者たちが肩を寄せ合って生きており、貧しさゆえの悲しみを皆が共有していました。

〈中津の地には、日韓併合後、祖国で職を失って日本に渡って来た在日韓国・朝鮮人が共棲していた。その中には強制的に連行・徴用された人々も少なくなかったという。許氏は敗戦間もない1947年2月24日、7人きょうだいの3男として生まれた〉

 父親は戦前に釜山から日本に渡ってきた在日一世です。母親は無学で文字も読めませんでしたが、生活力に満ち、働き者で逞しい女性でした。

 この時代の在日の母親たちは、家族のために必死に生きていました。私の母親はドブロク(密造酒)を作って、その収入で一家を支えていた。警察に摘発され、ドブロクの瓶を割られても、めげずにまた作るのです。

〈貧しさと差別の中で、毎日のように刃傷沙汰が起きていた。通報してもなかなか警察が来てくれない。そんな土地であった〉

“ややこしい家庭”も多く、日々社会の底を見ながら育ったんです。在日朝鮮人作家・梁石日の『血と骨』ではありませんが、家の中も外も修羅場だらけでした。もちろん真面目に生きている者もいましたが、ごんたくれ(わんぱく坊主)の私の周りに集まるのは不良ばかり。後年、いわゆる同和や極道といわれる人々と自然に交流ができたのは、こんな環境が素地になっていたのだと思います。

◆「大人のかくれんぼ」の2年間

〈許氏の人生には、その後も在日の宿命が立ちはだかる。「日本の宝石王」と呼ばれ政財官界に隠然たる力を持った大谷貴義、画商にして第2次岸内閣で内閣官房長官秘書官を務めた福本邦雄、「京都の怪人」と呼ばれた山段芳春など、数多の大物フィクサーの知己を得て政財界へと活動範囲を広げていった許氏だが、その人脈の裏には多くの在日がおり、またそこには常に差別の目があったと語る〉

 どの世界にいても、自分の出自を意識しなかったことはありません。戦後の日本と重ねて在日の歴史を俯瞰したとき、生まれ育った環境ゆえに、裏の世界に行く者、あるいは表と裏の狭間に身を置かざるを得なかった者が多かった。私の人生もそうした在日と数多く交わりました。

 ただし、その全てが仲間意識に支えられていたわけではない。狭い在日の世界では、同胞に対して強い身内意識がある一方、一度でも溝が生まれると、日本人同士のそれとは比較にならない程、深い憎しみに変わることがある。

〈それを最も象徴するエピソードが、許氏が「大人のかくれんぼ」と表現する、1997年10月から2年間に及んだ保釈中の失踪劇だ。

 イトマン事件を巡り、1991年7月に特別背任容疑で逮捕された許氏は、1993年12月、6億円の保釈金を払って保釈される。1997年9月27日、妻の実家の法要を理由に韓国に入国。宿泊先のホテルで倒れ、市内大学病院に入院するが、10月7日、病院から姿を消した。

 1999年11月5日に都内ホテルで身柄を拘束されるまでの2年間は、北朝鮮逃亡説から暴力団による拘束説まで数々の情報がメディアで報じられながら、いまだその間の行動は詳らかになっていない〉

“かくれんぼ”の理由を端的に説明すれば、刑の執行や刑罰を免れるためではなく、「暴力団抗争に巻き込まれ、命の危険性があった」からです。

 保釈中の私を狙っていたのは、関西のある在日の男でした。殺意の突端は、男の嫉妬としかいいようがない。事業でぶつかり、女性関係でもあらぬ疑いをかけてきたこの男は、京都のある極道組織に話を持って行った。その組は超武闘派で知られ、ある有名組長を射殺したことで名が知られていた。在日同士の怨念の中で、私は命を狙われることになったのです。

〈そして許氏は身を隠すことを決意する。1997年10月7日、病院を抜けた許氏が向かった先は、ソウル市内の金浦空港だった〉

 堂々と、自分のパスポートで飛行機に乗り、日本に入国しました。行き先は福岡。チケットは事前に協力者に用意してもらった。日本に帰国した理由は、信頼できる仲間の多くが日本にいたからです。その後は国内線で羽田へと飛び、以降、東京を拠点に、全国各地を放浪するかくれんぼが始まりました。

〈この間、日本各地の温泉宿やホテルを転々としていたという許氏。滞在先は入念に選別した〉

 地下の駐車場から直接上がれる構造のホテルを選んでいました。運動不足の解消に、ホテルのプールではよく泳いだものです。帽子をかぶってゴーグルをつけていると、意外と気づかれない。地方の温泉場ならば、1か所に3〜4日間ほど滞在して次の街へと移動していく。ただ、利用者が多い大箱の温泉は行かなかった。知っている連中と出会うかもしれませんから。

◆日本海沿いの温泉宿を転々と

〈かなり大胆に思える“かくれんぼ”生活だが、そこには許氏なりのルールがあった。単独行動は厳禁。風呂好きの許氏は、街中の銭湯に行く際も、必ず一工作した〉

 まず柄物の派手な服装の人間を2〜3人“先乗り”させるんです。で、客の目が彼らに集中される隙に、ひっそり入店する。浴室でもその連中から離れて浸かる。筋モノの中には銭湯好きが多くて、いつ顔見知りに会うかわからない。必ず数人を先に行かせて、中の様子を確認させました。

 都心のある大型スーパー銭湯に行った際、知人の政界関係者に遭ってしまったこともあります。パッと目が合い、向こうも固まっている。「議員宿舎の一室を用意しましょうか」なんて言ってくるので、やんわりと断わりました。

 当時、都内の学芸大学駅近くの銭湯によく通っていたのですが、帰り際に警官から職質を受けたこともあります。近くで何か事件があったようですが、聞かれたことにサラリと答えていたら、「ご苦労さまです」の一言で終わりました。警官も、頭に湯上がりのタオルを巻いたおっちゃんがあの許永中だとは、想像もしていなかったのでしょう。

〈人目を避けるように日本海沿いの温泉を転々としていた時は、海の向こうの“祖国”に思いを馳せて物思いにふけることもあった〉

 夜の日本海は、とにかく暗く、深い。吸い込まれそうになったことも一度や二度じゃありません。そのたびに坂本冬美さんの『風に立つ』を聞いて、己を鼓舞したものです。

◆今日も日韓の要人が訪ねてくる

〈長い“かくれんぼ”が終わりを迎えたのは、1999年11月5日。東京・台場のホテルで、警視庁の捜査員が許氏と連れの女性の身柄を確保。翌日、大阪拘置所に移送された〉

 保釈逃亡には、保釈金没収以外は法的な罰則はないんです。私の場合、保釈される前の状態に戻っただけ。そこからまた裁判が始まり、懲役が確定した。イトマン事件と石橋産業事件については、言いたいことは山のようにあります。まぎれもなく無罪だったと今でも確信している。ただ、それを今さら言ったところで、私の時間は帰ってこない。

〈2005年にイトマン事件で懲役7年が確定し、以後、石橋産業事件の刑期を加えおよそ3000日を、獄中で過ごした許氏。その日々をこう振り返る〉

 何度もいいますが、罪状には絶対に納得できない。しかし、長い時間で半生を静かに振り返ったとき、自分自身の過去を見つめざるを得なくなる。悪いこともたくさんしてきたな、と素直に反省した時間でもありました。

 かねてから不動明王を信仰していたので、余暇時間は不動真言を300万回は唱えました。写経は3000枚以上書いた。あとはただひたすら読書の日々でした。司馬遼太郎先生や帚木蓬生先生の文学作品から、医学書に至るまで、数多の書物を読みました。

【イトマン事件】
 住友銀行(現・三井住友銀行)をメインバンクとする商社・イトマンで起きた特別背任事件。1980年代後半、オイルショックで経営悪化したイトマンは、それまでの繊維商社から総合商社への方向転換を図る。ここに反社会勢力と繋がりのある経営コンサルタントや不動産業者が接近。リゾート開発や地上げ、絵画取引などの名目で、巨額の資金が闇社会に流出したとされる。1991年、イトマンの経営に参加していた不動産会社経営者の伊藤寿永光氏、イトマン社長の河村良彦氏と許氏が特別背任容疑で逮捕、有罪判決を受けた。

【石橋産業事件】
 若築建設、昭和化学工業など22社の関連会社を持つ石橋産業を巡る手形詐取事件。1996年、許氏とヤメ検弁護士の田中森一氏、そして不動産会社社長らが中心となり、中堅ゼネコンの新井組と若築建設の合併話を計画。その過程で石橋産業から179億円の約束手形を詐取したとされ、2000年、許氏と田中氏が詐欺容疑で逮捕、有罪判決を受けた。この事件を巡っては、巨額の政界工作金が複数の政治家に渡ったとされた。

※週刊ポスト2019年8月16・23日号

関連記事(外部サイト)