170万年前の女性 歩けなくても栄養過多だったのはなぜか

 障害や持病を持つ人、経済的困難にある人など、社会的弱者を切り捨てろと公言する人が目立つ。神奈川県相模原市の障害者施設で起きた殺傷事件を起こした容疑者も、そういった身勝手な理屈を犯行動機として供述している。諏訪中央病院名誉院長の鎌田實医師が、事件をきっかけに人間が構築する社会の可能性について考えた。

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 障害者支援施設「津久井やまゆり園」の殺傷事件から2か月が経つ。元職員の植松聖容疑者が、無抵抗の障害者19人の命を奪った残忍な事件は、各方面に今も大きな動揺を与えている。

 植松容疑者は、事件前、衆院議長公邸を訪ね、障害者への偏見に満ちた手紙を手渡している。事件後は「事件は社会のために起こした」と供述しているという。

 彼の考え方は、ナチスの優生思想と同類であり、特定の属性を差別する憎悪犯罪と非難されるべきものだ。家族に重度の障害者がいる人は、ベッドにいる入所者に声をかけ、返事がないと次々に殺していったという犯行に対し、こう強く訴えていた。

「言葉がなくても心はある。体が動かなくても、魂は自由な一人の人間だ。人間として大切にされるべき存在であることを、声を大にして言いたい」

 とうてい許すことができない犯行であるが、この事件は、ぼくたちの社会の病理を露呈させる結果になった。それは、社会的排除や、分断の問題である。

 津久井やまゆり園は、山に囲まれた住宅地にあり、重度の知的障害者や知的・身体の重複障害をもつ150人前後の人が入居していた。もし、町なかの開かれた施設で、一階にはカフェやパン屋があって、一緒にお茶が飲めるような空間があったら、このような事件は起こっただろうか。

 施設介護というのは、どうしても一般の社会と分断され、見えにくい。バリアを取りのぞく必要がある。ノーマライゼーションやソーシャル・インクルージョン(社会的包摂)の必要性が求められるなかで、今回の事件は、ぼくたちの社会が、障害をもつ人ももたない人も一緒に暮らせる社会ではない現実をあらためて認識させた。

 ぼくは6年ほど前、ケニアのトゥルカナ湖に行ったことがある。この付近で、170万年前のホモエレクトスの女性の骨が出土している。通称トゥルカナ婦人と言われている。

 その骨には、足に奇形があった。歩けなかったようだ。さらに、その骨を調べると、ビタミンA過剰症だとわかった。魚の臓物などを多く食べたことで、ビタミンAなどの栄養が過多になった可能性が高い。車いすもない時代、歩けない女性がなぜ栄養過多になっていたのだろう。

 おそらく、障害のあるこの人は、コミュニティの一員として生きていたのではないか。少なくとも、周りの人が食事の世話をしていた。

 人間は社会的な動物である。利己的なだけの集団は生き残るのに適さない。利己的でありつつ利他的な集団が、子どもを産み育てやすい社会をつくり、結果的に繁栄することができた。だから、ぼくたちが生き延びていくうえで、利他的に生きることはとても大切なことなのだ。

 物理学者のアインシュタインは、「人間性について絶望してはいけません。なぜなら、私たちは人間なのですから」と語った。人間だから間違いもする。でも、人間らしく生きられるはずだ。

 一人の男が起こした残虐な犯罪を乗り越えて、人々がつながりながら、障害があってもそれは個性なんだと言えるような寛容な社会を構築していく勇気をもちたいと思う。

●かまた・みのる/1948年生まれ。東京医科歯科大学医学部卒業後、長野県の諏訪中央病院に赴任。現在同名誉院長。チェルノブイリの子供たちや福島原発事故被災者たちへの医療支援などにも取り組んでいる。近著に『「イスラム国」よ』『死を受けとめる練習』。

※週刊ポスト2016年10月7日号

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