天皇祝賀パレードから思いを馳せた昭和時代の嫁姑関係

天皇祝賀パレードから思いを馳せた昭和時代の嫁姑関係

祝賀は「令和」の幕開けを実感させてくれた(時事通信フォト)

 体験取材などを得意とする『女性セブン』の名物アラ還ライター“オバ記者“こと野原広子が、世の中で話題になっているトピックに、自由な思いをぶつける。今回のテーマは「令和という時代〜式典に思う」。

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 一点の曇りもない晴天の下、「祝賀御列の儀」が11月10日、行われた。沿道に詰めかけた11万9000人、そして数多の国民の目が天皇皇后両陛下に注がれた。

「この日を迎えられて、ほんとによかったね」と、友達に話しかけるようにテレビ画面に語りかけていた私。

 中継が終わるとほぼ同時に、「テレビ、見た?」と、昭和9年生まれのうるさ型の知人・F子さん(85才)が電話をかけてきた。「美智子さまと同じ年」と言うのが口癖だ。

 彼女は、「公式行事の最中に何度か私語を交わされていたのが気になった」「オープンカーを先に降りた雅子さまが、陛下がお降りになるのを待たれる時、もう少し頭をお下げになった方がいいように思った。美智子さまもそうされていたから」と言う。

「だって、私が若い頃は、舅姑や夫の顔色をことあるごとに窺って、そうすることが嫁の務めだと思っていたんだから」とつぶやいた。

 私も昔を思い出した。38年前、ある家の長男坊に嫁いだ私は、舅姑と同居していた。結婚間もないある夏の日、姑からマヨネーズの保存の仕方で怒鳴られた。空気を入れて逆さにすると腐る。空気を抜いておけ。「お前なんか、嫁でもなんでもない。出ていけ」とまで言われ、私は食事が喉を通らなくなった。2日、3日…食卓に座るものの、5日間、箸が進まなかった。

 マヨネーズの置き方くらいでそこまで言われなくてもいいじゃないか。でも、舅は黙ってみそ汁をすすり、夫はテレビに見入って素知らぬフリをするばかりで、誰も助けてはくれなかった。

 嫁の立場は弱かった。姑の意見には、何でも「はい」。自らの考えを出すことなどあり得なかった。価値観の大きく違う人たちの中で暮らすことが、いかに息苦しいか。私は4年目に逃げ出した。

 それを思うと、今さらながら、皇室という特別な世界に嫁がれた雅子さまのご苦労はいかばかりだったか。

 陛下はもちろん、上皇さま、上皇后さまはおやさしく見守ってくださったように思う。でも周囲にはきっと、前例に従いたい人たちも多くいただろうから、息苦しい思いをされたのではないか。私の経験と同等に論じることなどできないことはわかっているけど、つい想像してしまう。

 昔の空気を思い出すと、F子さんが感じた違和感のようなものはたしかに理解できる。

 でも、その時とは時代が違う、価値観は大きく変わった、と私は思う。

 昭和30年代生まれの私は、徳仁親王が“ナルちゃん”という愛称で呼ばれていらした頃から身近に感じてきた。そんな私からすれば、“自然体”で今回の慶事に臨まれた両陛下のお姿は、なんとも親しみやすく、でも堂々としていらして、見ていてとても晴れ晴れしく、清やかな気持ちになれた。

 とりわけ、今回の祝賀では雅子さまの存在感をしっかり感じることができた。

「雅子さま、お元気になられてよかったわよねぇ。お顔が全然、違う」、「自然な笑顔が素敵だったよね」と、これは世代を超えての意見だ。

 雅子さまが何度か涙をぬぐわれる姿に、私は胸が熱くなった。

 雲ひとつない秋晴れの中、「雅子さま〜」「ばんざ〜い」の歓声が響き渡っている。ここで泣かずにどこで泣く、と思ったら私も目頭が熱くなった。

 祝賀前夜、『天皇陛下御即位をお祝いする国民祭典』が皇居前広場で行われ、嵐の奉祝曲や国歌斉唱の後、天皇陛下は「さまざまな機会に、国民の皆さんと直接接し、皆さんの幸せを願う思いを私たちふたりで新たにしてきました」とお言葉を述べられた。

 天皇陛下と雅子皇后がこれまでにない新しい扉を開けた瞬間で、今こそ「令和」という新たな時代の幕開けなんだ、と私は感じた。

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 長年、お召し列車の撮影に情熱を傾けている“撮り鉄”の男友達からは、こんな声も届いた。

「昭和天皇のお召し列車は、車両を見ているだけで緊張した。警備が厳しくて、追い払われたこともある。それが平成の時代になったら、おれたちがひな壇を作ってカメラを構えている“撮りの巣”に向かって、窓を開けて手を振ってくださったよ」

 天皇陛下、皇后陛下のありようで、時代の変わり目がはっきりわかる。そんな日本に生まれてよかった、雅子さまの笑顔が続きますようにと、あらためて思った。

※女性セブン2019年11月28日号

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